2012年8月27日月曜日

アンダルシアのイスラム建築

 スペインのアンダルシアは、711年にイスラム軍に征服されてから、15世紀末までの実に800年の間イスラム文化が花開いた地域です。初期イスラム時代に、世界で最も輝いた都市の一つコルドバ、中世を通じてベルベル王朝の拠点となったセヴィーリャ、中世末期にイベリア半島最後のイスラム王朝が置かれたグラナダ。これら3つの都市に残る歴史的建築物を見てみましょう。

コルドバのメスキータ
 中東シリアのダマスカスに首都を置いたウマイヤ朝は、わずか100年足らずで滅び、アッバース朝が台頭しました。アブド・アッラフマーン一世は、アッバース朝の追っ手を逃れてマグレブ(アフリカ北西部、マグレブとはアラビア語で西方の意)へ移動しました。アッラフマーン一世はイベリア半島のコルドバに首都を置き、756年に独立国家を宣言しました。これが後ウマイヤ朝の始まりです。10世紀ごろ、後ウマイヤ朝のコルドバは、ビザンツ帝国のコンスタンティノポリス、アッバース朝のバクダードと比肩するほどの大都市として栄えたと言います。

 メスキータは、スペイン語でモスクを指し、一般には単にコルドバのモスクのことを言うことが多いようです。コルドバは、グアダルキヴィル川の中流域にあり、海岸からは意外にも100 km以上離れています。北に東西に走る山脈、南にグアダルキヴィル川を配し、地中海特有の温暖で安定した気候です。私が訪れたときにも、川を挟んですばらしい景色が望めました。


コルドバ ローマ橋を挟んで対岸にメスキータを望む

 コルドバのメスキータは、後ウマイヤ朝の初代君主アブデル・ラマハンによって784年に建設されたましたが、現在のメスキータよりもはるかに小さいものでした。歴代王朝によって3度の大増築が行われ、現在の姿になったのは、最初の建設より300年も後の、1100年ごろのことです。最終的には175m×128mもの敷地を占めており(マグレブでは最大規模)、その北部の120m×56mが中庭になっています。コルドバのメスキータは、いわゆる「多柱式モスク」の典型というべきもので、礼拝室は19の柱廊に分かれ、南北方向の柱間は、東端部で数えて19スパンもあります。礼拝室全体では、じつに514本もの円柱が使用されています。堂内は、やや背の低い柱の上に、白い石と赤い煉瓦を交互に使った馬蹄形のアーチを二重にかけ、その上に木造天井を架けています。中に入ると、ひやりとした空気と共に、暗い森の中に入るような印象を受けます。


コルドバ メスキータの内部

 モスクは、メッカの方向を示すミフラーブとその壁、および礼拝を呼びかけるミナレットさえあれば良く、キリスト教の教会堂のように、複雑な機能を必要としていません。そのため、ウマイヤ朝のあったダマスカスのモスクのように、広場が大きな「広場型」のモスクや、イスタンブールのスレイマン・モスクのように、ビザンツ建築を模した「ドーム型」のモスクなど、様々な形のモスクが作られました。反対に言えば、モスクはそのぶん簡単に他の建物に改築が可能で、コルドバのモスクでは、礼拝室の中心部にゴシック様式の教会堂が、文字通り挿入されています。これはレコンキスタでアンダルシアを奪回したキリスト教徒が、モスクを取り壊さず、中心部分にだけ教会堂を挿入したものですが、巨大な列柱モスクによってすっぽりと覆われていて、何か付け足した印象が否めません。
 このモスクのハイライトは、最奥部のマクスーラに多弁形アーチを組み合わせたスクリーンや、ミフラブの壁とその前にあるドームで、特にミフラブの近辺は美しいガラス・モザイクで埋め尽くされています。ここには、10世紀頃にこの地で全盛期を迎えたイスラム文化の頂点が示されています。

セヴィーリャ
 後ウマイヤ朝が滅んだ11世紀以降、グアダルキヴィル川下流のセヴィーリャが、内陸港として栄えました。12世紀後半には、北アフリカに興ったベルベル王朝のムワヒッド朝が、セヴィーリャをイベリア半島支配の拠点としたため、次第に発展しました。じっさい、海岸からは70kmほど離れていますが、街の中心部を流れる運河沿いには、レストランが並び、地中海の魚貝類料理を出しています。セヴィーリャでは、ゴシック様式の大聖堂が有名です。もともと12世紀創建のモスクがあったところを、教会堂に建て替えたため、身廊の長さは130mある反面、幅も75mに及びます。天井高さは40mもあるにもかかわらず、ゴシック特有の垂直性よりも、水平に広がった印象があります。


セヴィーリア スペイン・ゴシック様式の大聖堂
 
ゴシック様式よりも興味を引かれたのは、スペイン語でヒラルダ(風見)と呼ばれる鐘塔で、元はモスクのミナレット(塔)でした。また、モスクの北側には、コルドバのモスクと同じように、広場があり、現在もオレンジが植えてあります。その北回廊の中央出口には、イスラム時代の馬蹄形アーチが現在も残っていて、中世イスラム文化の片鱗を覗かせています。

セヴィーリア イスラム時代の馬蹄形アーチの下から大聖堂を見上げる
 

グラナダ
 アンダルシアのイスラム建築を巡る旅の最後は、グラナダです。11世紀にコルドバの後ウマイヤ朝が滅びた後、イベリア半島ではいくつもの王朝ができました。13世紀に入ると、キリスト教徒のレコンキスタによって次第にイベリア半島のイスラム王朝は弱体化し、大航海時代が始まった1492年には滅亡しました。最後の王朝であるグラナダのナスル朝が建てた王宮が、有名なアルハンブラ宮殿です。

 アルハンブラとは、アラビア語で「赤い城塞」を意味するal Qalaa al Hamraが、スペイン語において転訛したものと言われています。宮殿は、グラナダ東部の山の上にあり、東西730m、南北180mの東西に細長い敷地を占めており、その全体を城壁で囲まれています。2つの中庭を中心に作られているメインの宮殿は、主に14世紀に建てられたものです。入り口は西側にあって、二つの中庭を通って謁見室にたどり着きます。謁見室は公的謁見室と私的謁見室の2つに分かれており、それぞれ中庭があります。前者がミルトルのパティオと呼ばれる細長い池と植え込みのある中庭で、後者が獅子のパティオと呼ばれる中庭です。見所は山ほどありますが、中でも獅子のパティオは、ムハンマド五世によって1377年頃から建てられたとされ、イスラム宮殿建築の珠玉とも言うべき完成度に達しています。中央に十二頭のライオンに支えられた十二角形の水盤があり、その四方を128本に達する細い大理石円柱、スタッコの透かし彫りの壁、木製のフリーズなどで構成された繊細なアーケイドが取り囲みます。獅子のパティオの北側には、見事なスタラクタイト(鍾乳石飾り)のドームを持つ、「二姉妹の間」があります。この技術は、イランのイスファハーンなどで発達したイスラム建築技術が、再びイベリア半島に輸入されたものと言われ、中世イスラム建築文化の結晶とも言えるでしょう。中世イスラムの宮殿建築で、これほど完全な形で残されているものは他に例がなく、きわめて貴重な遺産と言えるでしょう。


グラナダ アルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」のドーム
 

2012年7月2日月曜日

ミュンヘン国立歌劇場


ミュンヘン国立歌劇場(Nationaltheater München)は、マックス・ヨセフ広場に立つ歌劇場である。国立歌劇場と言っても、バイエルン州によって運営されている州立歌劇場で、バイエルン州立オペラの本拠地でもある。ミュンヘンには、もともとザルバトール広場に1657年に建てられたレジデンツ歌劇場があり、その中庭でオペラが上演されていたらしい。しかし1795年にはそこも閉鎖となった。最後のバイエルン選帝候で、後に初代バイエルン王となったマクシィミリアム一世のもと、1810年に建築家カール・フォン・フィッシャーの手による新たな「国立歌劇場」が計画された。フォン・フィッシャーは、19世紀初頭にミュンヘンで活躍した建築家で、ウィーンで建築家フェルディナンド・フォン・ホーフェンベェルグと、劇場建築の専門家であったヨセフ・プラッツァーに学んだ後、1803年に設計した初期新古典主義のプリンツ・カール宮殿(Prinz-Carl-Palais)によって認められ、ミュンヘン芸術アカデミーの教授となった人物である。国立歌劇場だけでなく、ミュンヘンの都市開発も手がけ、王の広場を含むブリエナー通りを計画したことで知られる。

ミュンヘン国立歌劇場、正面 1825年ごろ

さて、フィッシャーの設計したミュンヘン国立歌劇場は1818年に完成したが、わずか5年後には火事で焼失した。現在の国立歌劇場は、じつは後継者であるレオ・フォン・クレンツェによる設計(1825年?)である。クレンツェは、先にも挙げたフィッシャーの「王の広場」に、アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)やプロピレーエン(Prolyläen)を建てただけでなく、海外でも活躍し、独立したギリシアではオルソン一世に招かれてアテネの都市計画やアクロポリスの調査に手を染め、またロシアではニコライ一世に招かれてサンクトペテルブルグの新エルミタージュ美術館を設計した。ミュンヘン国立歌劇場は、高いポデュウムの上に大きなポーチと破風を正面に置く神殿風のファサードが二重に配置され、シンケルが設計したベルリン王立歌劇場(1818-1821年)と彷彿とさせる。もっともベルリン王立歌劇場に比べると、ミュンヘン国立歌劇場はやや規模が小さい。その後、ステージや客席の改修を経ながら、第二次大戦中に爆撃を受けるまで使用されていた。戦後の改修によって再び現在の姿に復元され、1963年にワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で再スタートを切った。

ミュンヘン国立歌劇場、内観

現在内部は5階建て(日本で言う6階立て)の客席を持ち、舞台袖にはコリント式の大オーダーで支えられた特別席がある。また舞台の正反対の客席にも、アテネのエレクテイオンのカリアティッド(人物柱)を模った巨大な柱で支えられた特別席がある。(残念ながら、こちらは写真なし。)このあたりに18世紀末からギリシア趣味に傾いたドイツの新古典主義建築の傾向が現れている。2000席ほどの客席は、意外にもあまり広さを感じない。むしろ舞台と客席との距離の近さが印象的である。

訪問当日はモーツァルトのコジ・ファン・トゥッテが上演された。舞台セットはやや現代風ながら、イタリア語による上演(ドイツ語字幕付き)で、オペラ初心者には分かりやすい演出だった。詳しくはまた別の機会に。

2012年6月7日木曜日

マウルブロン修道院

ドイツ南西部のバーデン・ヴュルテンベルグ州に残るマウルブロン修道院は、中世から残る古いシトー派の修道院である。ヨーロッパに残る中世のシトー派の修道院の中でも、付属する建造物群も含めて、最もよく保存されていることで知られ、1993年にはユネスコの世界遺産に指定された。マウルブロンは、シュバルツバツトの森の北端に位置する小さな村で、カールスルーエとシュツットガルトのほぼ中間に位置する。手元の資料に寄れば、シトー派から初めて選出されたローマ教皇・エウゲニウス3世の後援を受け、1147年に設立されたという。
この修道院が世に知られるようになったのは、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」に登場する神学校の舞台となったためである。ヘッセ自身、後に福音主義の神学校となったこの名門校に入学し、青年期の挫折を味わったと言う。今も世界中のヘッセ・ファンが、美しい緑に囲まれたこの修道院を見学にやってくる。

マウルブロン修道院 平面図
修道院は狭い中庭を囲む回廊と、その裏手に控える食堂、貯蔵室、総会室、玄関などの諸室で構成される。シトー派の修道士たちは、ゴシック様式を西ヨーロッパ各地に伝えたと言われる。実際、マウルブロン修道院の付属教会堂は、1178年にシュパイアー司教のアルノルトによって、ロマネスクからゴシック様式に改築された。回廊も同様に、軽やかなリブ・ヴォールトを架け、開放的な開口部は、中庭と一体となって心地よい。

回廊のリブ・ヴォールト天井
マウルブロン修道院におけるリブ・ヴォールトの天井は、初期ゴシックの構造的意味よりも、装飾的意味が重要であると思う。回廊の東に面するメイン・ホールや付属教会堂では、複雑なリブ・ヴォールト天井をかけ、リブとリブの間のヴォールトに、繊細な装飾を施している。シトー派は、装飾を排除して実用的な建築を好んだと言われるので、これらの部分は宗教改革期以降にプロテスタントの人々によって改築されたのではないかと推測するが、詳しい資料が手元になく、確かめることが出来ない。


付属教会堂内陣付近 天井の交差ヴォールトを見上げる

それにしても、マウルブロン修道院の見所は、やはり美しい回廊と中庭にあると思う。とくに、北回廊に作られた二階建ての噴水は、回廊よりもより一層軽く美しいリブ・ヴォールトを架け、この修道院の目玉となっている。


北回廊の噴水

2012年5月27日日曜日

三葉形平面の初期ロマネスク聖堂

 ケルンと言えばゴシック様式の大聖堂が有名だが、じつは多くのロマネスクの聖堂が残っている。筆者が知る限り、十二ものロマネスク聖堂があり、これほどの多くのロマネスク聖堂がある町は、おそらくケルンをおいて他にないだろう。ケルンはローマ時代から発展した古い町で、ライン川中流域にあるシュパイヤー、ウォルムス、マインツなどの大聖堂が建てられたのとほぼ同じ頃、比較的規模の大きいロマネスクの聖堂が次々と建てられた。ここでは初期ロマネスクのザンクト・パンタレイオン聖堂と、三葉形平面の内陣を持つ三つの聖堂を取り上げ、このケルンのロマネスク聖堂を概観してみよう。


ザンクト・パンタレイオン聖堂 (Sankt Pantaleon, Köln)
この聖堂は、ケルン市南西の緑の多い公園の奥手に建っている。ブルノ大司教により再建された建物で、外陣と内陣は984~990年に完成、西正面も980~1005年ごろに完成した。西正面は、中央の大きな方形の塔と、左右の階段塔で構成される点が特徴で、残念ながら、中央の方形の塔は19世紀の再建、階段塔も軒蛇腹から上が再建である。しかし、西正面に三つの大きな塔を建てるというコンセプトの壮大さは、現在の再建された建物から充分に伝わってくる。
三つのトリビューンに囲まれた玄関広間は、アーチで側廊と東正面に繋がっており、きわめて簡素で開放的である。この簡潔な構成は、そのまま外観にも現れており、壁面に施された彫りの浅い窓、軒蛇腹、盲アーチ、付け柱などの要素は、躯体の量感を妨げない程度に注意深く整然と作られている。簡素ながらも美しい形式を備えたこの初期プレロマネスクの作品は、古代的なプロポーション感覚が維持されており、同時に、大きな階段塔を持つ西正面の壮大なコンセプトは、ロマネスク大聖堂の多塔形式に影響を与えたと思われる。

ザンクト・パンタレイオン聖堂 西正面 (980~1005年ごろ)

ザンクト・マリア・イム・カピトール聖堂 (Sankt Maria im Kapitol, Köln)
 「カピトールの丘」に建つという魅力的な名前を持つ、ザンクト・マリア・イム・カピトール大聖堂は、旧市街地の南端、トラムのHeumarkt駅から歩いてすぐの場所にある。この大聖堂は、おそらくケルンでは最初の三葉形の内陣(Dreikonchenchor)を持つロマネスク聖堂で、長さ100mある建物の半分が三葉形の内陣である。

ザンクト・マリア・イム・カピトール聖堂、東内陣 (1040~1065年ごろ)
 アプスとほぼ同じ直径をもつ半円形の袖廊は、外観からもすぐ分かるほど突出している。半円形平面のアプスとアプスの間を埋めるために、矩形の低い塔が建てられているが、どうやらこの部分は増築のようである。内部は、中央の交差ヴォールトを支えるピアによって、内陣が分節されている。三葉形の外壁に沿って紅白縞模様のアーチと円柱でできたアーケイドがぐるりと巡らしてあり、その背後には聖人の彫刻が並べられている。
 三葉形平面の内陣の出自は定かでないが、ロンバルティア地方から移入されたもので、ミラノのサン・ロレンツォ(四世紀末)が原型と言われる。三葉形平面の建物は、ローマ時代の浴場や泉水場から見られ、とくに3世紀後期から4世紀にかけては、西地中海の諸都市でヴィッラ(別荘)などに広く使われたことが知られているが、ロマネスク時代の教会堂内陣とは、直接には関係ないだろう。


ザンクト・マリア・イム・カピトール聖堂の平面

ザンクト・アポステルン聖堂 (Sankt Aposteln, Köln) 
 ザンクト・アポステルン聖堂は、旧市街地西部のNeumarktの端にある。Neumarktは、ローマ時代からあった市壁に面しており、聖堂は市壁の外側に建てられている。アポステルン聖堂は東西に二つの内陣をもつ、典型的なライン川流域のロマネスク聖堂で、1200年頃に再建された東内陣は、マリア・イム・カピトール聖堂をさらに発展させた三葉形の内陣をもつ。アプスの壁は、ザンクト・マリアよりもさらに高くなり、二階建ての付け柱と盲アーケイドを巡らせ、二階部分のアーケイドは一つおきに開口部を設け、内陣を明るくした。軒下には細い円柱を束ねた背の低いギャラリーを設け、南北のアプスにも連続させることで、三つのアプスが一体的になった。アプスとアプスの間を埋める方形の塔も、ほどよい大きさと高さにまとめられ、完成した三葉形内陣の形式を示している。
 この聖堂には西側にも内陣があり、交差部の上に大きな方形の塔を頂く、西正面の聖堂前広場が狭いこともあって、東側とは対照的に異様な外観を見せている。


ザンクト・アポステルン聖堂 (1021~1036年ごろ再建、1200~1220年ごろ東内陣再建)

グロス・サンクト・マルティン大聖堂 (Gross Sankt Martin, Köln) 
 最後にケルンの大聖堂にも近い、グロス・サンクト・マルティン大聖堂を取り挙げよう。ドイツ橋 Deutzer Brückeのすぐそばに建ち、ライン川沿いの船着場からも、その巨大な塔を見上げることができる。この東内陣の交差部に建てられた巨大な方形の塔は、当時のものではなく、第二次大戦後に修復されたものである。
 ケルンの旧市街地はもともとローマ時代の建物が多数発見されており、このマルティン聖堂も、ローマ時代の建物の一角に建てられたバシリカ式教会堂を基礎としている。現在残っている建物は、アポステルン聖堂とほぼ同じ頃の1150~1250年に建てられたと言われ、内陣もこの頃と考えてよいだろう。
 外から見ると外陣には、軒蛇腹やロンバルディア帯と呼ばれる小アーチの軒装飾が見られ、半円形の内陣とピアと一体となった八角形の方形の塔には、盲アーケイドが見られ、これはアポステルン聖堂と同じである。しかし、司教座の置かれたこの由緒ある大聖堂は、交差部にさらに高い方形の塔を用意した。


グロス・サンクト・マルティン大聖堂 (1150~1250年ごろ再建)

 このように、それなりに発展した三葉形平面の大聖堂は、しかしながら、ケルンとその近郊(ボンなど)でしか使用されず、以後ロマネスク聖堂の典型とはならなかった。その理由は様々に考え得るだろうが、おそらく聖堂が巨大化するにつれて、高層化の欲求が強くなり、大きな塔を配置するようになると、広すぎる三葉形の内陣は邪魔になったのではないだろうか。

2012年5月12日土曜日

アーヘンの宮廷礼拝堂

5世紀終わりごろに西ローマ帝国が滅亡すると、混乱の中で西ヨーロッパの建築活動はすっかり停滞してしまった。この停滞状態は、ロマネスクの大聖堂の建設が始まる10世紀後半ごろまで長く続いた。したがって、西ヨーロッパにおける6世紀~10世紀までの建物は、11世紀以降のロマネスク建築と区別して、プレロマネスクと呼ばれる。しかし、プレロマネスクの建物と言えば、西ローマ帝国の遺産であるキリスト教徒が建てた修道院の建物等であり、そのほとんどは現存していない。したがって、プレロマネスクの建築は、明確な建築様式もなく、また規模も小さい。その中でベルギー国境に近いアーヘンの宮廷礼拝堂は、現存する特異なプレロマネスクとして知られている。なぜならその身廊は、八角形平面にドーム状のヴォールトを架けるという、この時期や地域には類例のない特殊な礼拝堂だからである。

アーヘン、宮廷礼拝堂 (中央の八角形の身廊部の軒よりも下の部分のみが最初の建造(805)で、軒の盲アーケイドと三角形の破風は13世紀の、ドームは17世紀(1669)の増築。左手の内陣は15世紀(1414)にゴシック様式で増築され、右手奥の塔は19世紀(1884)に増築されたもの。)
アーヘンの宮廷礼拝堂は、シャルルマーニュ(カール大帝)の宮廷付属礼拝堂として805年に建てられた。礼拝堂は宮殿の大広間の南に建っており、大広間(1350年に市庁舎Rathausに改築)と礼拝堂とは、二階建ての大廊下で繋がっていたという。また礼拝堂の西には二階建てのアトリウムがあり、アトリウムと大広間もまた、廊下で繋がれていた。これら建設当初の躯体は、八角形の身廊を除き、現存しない。


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アーヘン、八角形身廊のドーム (天井モザイクは二十四長老が復活したイエスを囲む構図で、堂内のモザイクや大理石化粧材と共に、20世紀の初めに復元されたもの。)

中央の身廊を中心に、十六角形の外壁が巡り、その間を交差ヴォールトを架けて側廊としている。さらにその上に二階廊を巡らし、中心から外壁に向かって放射状にトンネル・ヴォールトを架けた。アプスはゴシック様式に改築されたため現存しないが、当初は身廊と同じく二階建てで、長方形平面の突出するアプスがあった。身廊のドームは石造で、直径は約14 mあるのに対し、天井高さは約31 mもあり、極端に垂直性が高い。 

この礼拝堂の特異な造形は、二階周廊と石造ドームなどの類似性から、ラヴェンナのサン・ヴィッターレが原型とされている。サン・ヴィッターレはユスティアヌス帝の時代(6世紀半ば)に建てられたビザンツ建築の傑作で、八角形平面の身廊と二階建て側廊を持つ。しかし、八角形の各辺から側廊に向かって半円形のニッチを突出させることで、身廊と側廊がより流動的な空間となっており(逆に側廊をニッチの裏側で犠牲にしているが)、さらにニッチ上部の半ドームが中央の石造ドームを支える格好になっている(この平面形式は、コンスタンティノポリスの聖セルギオス・聖バッコスの強い影響を受けている。)このような空間的流動性は、アーヘンの礼拝堂には見られない。むしろ、ここでは身廊と側廊を隔てる大きなピアと大理石の柱が、重厚で垂直性の高い空間を作り出している。この特徴は、後のロマネスクの大聖堂を連想させるだろう。また、サン・ヴィッターレの中央ドームは、放射状に伸びるリブで目地を切られた十六枚のセルで出来ているのに対し、アーヘンの礼拝堂の中央ドームは、単純な八枚のセルでドームを構成し、モザイクで天井画が描かれている。

アーヘン、礼拝堂 八角形身廊から二階側廊を見上げる 
重厚で垂直性の強い空間は、ロマネスク的な記念性を現している

もっとも、ゼブラ模様アーチや色大理石の円柱、豊かに装飾された床や天井は(現在のそれは20世紀初頭の復元だが)、一般の大聖堂と異なり、皇帝が住んだ宮廷の礼拝堂としての特徴を顕著に示している。これは西ローマ帝国の復興を目指したカール大帝の意図によると言われる。また二階側廊の西側には、大理石造の皇帝席(Kaisersthul)がある。これは皇帝=司祭というカール大帝の立場を、建築的に表現したもので、おそらく盛期ロマネスク大聖堂の二重内陣式の始まりではないだろうか。さらに、西玄関の両翼には階段室を設けたことで、礼拝堂の西正面は重厚な構えになった(ちょうど中世ヨーロッパの門のような)ことも、ロマネスクへの直接的影響として理解される。このようにアーヘンの礼拝堂は、西ローマ帝国ないしはビザンツ帝国からヨーロッパ中世にかけての、いわば過渡期における記念的建築物として、なお興味の尽きない建築である。

2012年5月2日水曜日

ライン川流域のロマネスク建築

短い週末休みを利用して、ライン川流域に残るドイツ・ロマネスク建築を見学する旅に出た。ドイツ西部を南から北へ流れるライン川の中流域は、11世紀から13世紀にかけて巨大なロマネスクの大聖堂が建てられたことで知られる。今回は、ライン川流域の三大聖堂として名高いシュパイヤー、ウォルムス、マインツの大聖堂を訪ねた。

西ローマ帝国が滅亡してから、数百年ものあいだ停滞状態が続いたヨーロッパでは、修道院などの一部の例外を除き、めぼしい建築文化が育たなかった。11世紀になって都市が発達しはじめ、サンティアゴ・コンポステーラの巡礼活動などによって、地中海の石造文化と北方の木造文化が混ざり合った結果、ようやく新しい教会堂が建ち始めた。これがロマネスク建築の始まりである。したがって、ロマネスクと言っても古代ローマの建築とは何ら関係はなく、西ヨーロッパの各地で建てられたローカルな建築様式の総称と理解しておけばよい。しかしロマネスク建築は、ヨーロッパの建築がイスラム建築から受けた直接的影響を理解する意味においても、また後のゴシック建築を準備した意味においても、重要な建築様式である。

初期ロマネスク建築は、壁や柱だけを石造とし、天井や小屋組を木造としたため、落雷による火災が後を絶たなかった。そのため11世紀半ばあたりから石造のヴォールト天井を架けはじめたが、施工時に型枠が必要で、しかも石材の形が複雑であったため、建設は困難を極めた。ドイツでは、早くから交差ヴォールト天井(矩形グリッドの天井を平面で垂直に交差する2つのヴォールトで支える構造)が採用されたが、トンネル型ヴォールトやペンデンティブ・ドームなどに比べて建設が難しく、しばしば崩壊事故を起こした。特に長方形グリッドの天井に交差ヴォールト天井を架ける場合、長辺アーチと短辺アーチの頂部が同じ高さに揃わない。また一辺のアーチを半円形にしても対角線上のアーチは背の低い楕円形となり、構造的に安定しない。そのため身廊や側廊の平面区画をなるだけ正方形に整えるなど、幾何学的に明快にする努力がなされた。

ライン川沿いのロマネスクの大聖堂では、二重内陣式、多塔形式が基本で、軒蛇腹やロンバルディア帯と呼ばれる小アーチの軒装飾が使われた。また、軒ギャラリーを巡らせたことも特徴である。二重内陣式とは、通常は教会堂の東にしかない内陣が、西側にもある形式のことで、とくにドイツでこの形式が多いのは、神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ皇帝)が、西玄関二階の内陣に皇帝席を用意させたためである。

 
シュパイヤー大聖堂、外観(1030~1106年頃)
シュパイヤー大聖堂

ハイデルベルグに近いシュパイヤーには、ドイツ・ロマネスク建築の中でも初期の大作として知られる大聖堂が建っている。シュパイヤー大聖堂は、全長130m、身廊は約13.5×70mもあり、ロマネスク建築の中ではフランスのクリュニュー第3教会についで大きい。ライン川上流域に建てられた大聖堂は、南はバーゼルから北はマインツまで、ライン川で採れるピンク色の砂岩を使っている。シュパイヤーも、やはりピンクの砂岩が印象的であった。外から眺めると、東と西に建てられた高い階段塔と、交差部と西正面の八角形の塔が目を引く。軒の下には、長い軒ギャラリーが作られ、これはその後ライン川沿岸の教会堂で模倣されることになった。

クリプト(地下墓室)や側廊は、建設当初から交差ヴォールトが用いられ、特にクリプトは半円形の放射状ではなく、長方形グリッドの区画になっている。クリプトの交差ヴォールトを支えるアーチと、側廊の横断アーチには、ゼブラ模様(紅白の縞模様)が人目を引く。ゼブラ模様は、ロマネスク時代にイスラム建築から導入されたと言われる。ゼブラ模様と言えば、すぐにスペインのコルドバの大モスク(785-1101年)が思い出される。

身廊だけは、もともと木造であったらしい。現在の交差ヴォールト天井は、1100年の増築である。その際、重い石造のヴォールトを支えるため、ピアには一本おきに細い半円柱の付け柱と、太い半円柱の付け柱が交互に付け加えられた。すなわち、太いピアはアーチの端部を支え、細いピアはアーチの頂部を支える格好になっている。この強弱のピアは、単に構造的補強にとどまらず、身廊の垂直性を強調し、リズミカルな視覚的効果を与えたことから、マインツやウォルムスでも模倣され、後にヨーロッパ各地に伝わった。この強弱の付け柱は、ゴシック様式の大聖堂に受け継がれた。

シュパイヤー大聖堂、身廊(1100年頃)
ヴォルムス大聖堂 

シュパイヤーからさらに30分ほど車を走らせ、ライン川を再び越えるとヴォルムスの町につく。ヴォルムスの大聖堂は、シュパイヤー、マインツと並ぶ三大聖堂の一つである。ヴォルムス大聖堂といえば、マルティン・ルターが1521年、ヴォルムス帝国議会でローマ教会から破門を受けたところである。ライン川の対岸からもはっきり見えるヴォルムスの大聖堂は、三大聖堂の中では一番新しく、また規模も小さいが、ノルマン式の正方形区画を採用し、最も完成したドイツ・ロマネスク建築と言われる。

ヴォルムス大聖堂、外観(1171~1240年頃)


交差部と西内陣に八角塔、東西内陣の両側に円形の階段塔を立て、ロンバルディア帯と小アーケイドで飾っている。西側にも内陣があるため、東端にも西端にも入り口はなく、出入口は北側廊と南側廊にある。
ヴォルムス大聖堂、身廊(1171~1240年頃)

11世紀の基礎の上に建てられたロマネスクの大聖堂は、彫刻などの装飾を多用せず、マッシブな躯体をそのまま使用し、簡素ながら力強い印象を与える。ヴォルムスでは、13世紀半ばまで建造が続いたが、この頃フランスではすでにゴシック建築がさかんに建てられていた。アミアン大聖堂を模したといわれるケルン大聖堂の建設が1248年に始まったことを考えると、いかにドイツで長くロマネスク建築が愛好されていたか伺えよう。

建築史の講義では、ロマネスク建築のあとにゴシック建築が登場するが、これはあくまで便宜的な説明であって、実際にはわずか1世紀ほどの時間をおいて、二つの様式建築が同時に建てられていた。もちろん、ゴシック建築はその後ルネサンス建築の影響を受けるまで、ヨーロッパの国際的な様式建築となったわけで、その意味で、ロマネスクはあくまで地方色の強い様式と考えれば良いのだろう。

2012年4月16日月曜日

南ドイツのバロック・ロココ建築

16世紀末にイタリアで発生したバロック建築は、30年戦争(1618-48)の影響もあり、ドイツに導入されたのは17世紀末になってからでした。南ドイツはカトリックが支配的でしたから、人々はすぐさま共鳴しました。もっとも、最初にバロック建築を建てたのは、イタリア人の建築家たちだったようです。


(ツワインガー宮殿、ドレスデン)

18世紀の初め頃には、ドイツ人の建築家たちが活躍し始め、ドレスデンにドイツ・バロックを代表する作品が建てられました。一つは、ダニエル・ペッペルマンが設計した、ツウィンガー宮殿です。祝祭用の大中庭を囲い込む建物群で、彫刻装飾が目を引きます。中でも1階階段室のスタッコ彫刻は、イタリアのバロック建築と比べても、引けを取らないと言われています。もう一つは、ゲオルク・ベールの設計したフラウエンキルヘです。ドームまで砂岩で作られた、とても珍しいプロテスタントの教会堂で、残念ながら第二次大戦で戦火に遭いました。戦後も東西ドイツの長い苦難を経て、近年ようやく修復が完了し、一般に公開されています。


(フラウエンキルヘ、ドレスデン)

円形平面の上に立体的に建てられたフラウエンキルヘは、教会というよりも劇場のようなつくりです。方形平面の三方に入り口を、一方にアプスをおき、そこに祭壇とパイプオルガンがあります。他に類を見ないほど客席を立体的に配置し、四隅には合唱席に上がる階段室が設けられています。大部分が修復されているので、どの程度までがオリジナルであるかよく分かりませんが、階段席を支える美しい柱や半ドームなど、全ての要素が一体となって頂部のドームを支えています。これら全てがやわらかい砂岩で出来ているというのも、驚きです。第二次大戦で破壊されたことが、本当に惜しまれる教会です。

ドイツ南部のバイエルン地方には、やはりドイツのバロック建築、とりわけロココ装飾で知られる修道院聖堂が数多く残っています。18世紀にフランスではじまったロココ装飾(木材、スタッコを材料とした建築内装装飾)は、またたく間にドイツにも導入されました。フランスのロココ装飾は木製で、線的な装飾が主だったのに比べ、ドイツでは主にスタッコで作られ、肉厚で彫塑的な装飾に発展しました。これは石材に乏しいドイツでは古くからスタッコ細工があったためと言われ、南ヴァイエルンのヴェッソブルンのように、村人の大半がスタッコ細工職人という集落まで現れました。このためドイツで活躍したバロック建築家の多くは、スタッコ細工職人と共同で仕事を受けることが多くなり、後にスタッコ装飾の名手と言われるヨハン・ミヒャエル・ファイヒトマイヤーのような職人も現れました。


(オットーボイレン修道院聖堂、シュヴァーベン地方)

ドイツ・バロック建築を代表する建築家ヨハン・ミヒャエル・フィッシャーがファイヒトマイヤーと協力して建てたのが、ドイツ南西部にあるオットーボイレン修道院聖堂です、身廊部分、交差部分および内陣部分のすべてにスタッコによる曲面ヴォールト天井をかけ、天井画と壁面の彫刻がダイナミックに融合しています。このように、高度なスタッコ技術を駆使して、建築の構造的な部分を視界から消し去り、天井画と彫刻との融合によって、一体的な空間を生み出している点が、ドイツのロココ建築の特徴でしょう。オットーボイレン修道院聖堂は、訪れてみると意外に大きく、巨大な空間に圧倒されました。スタッコ装飾は、よく目を凝らしてスタッコのひび割れ部分を探さないと、スタッコで作られていることが分からないほど良くできています。特に、色大理石の円柱などはまるで本物の大理石柱のようです。


(ツヴィーファルテン修道院聖堂)

同じくツヴィーファルテン修道院聖堂も、建築家フィッシャーの代表作で、スタッコ装飾の名手ファイヒトマイヤーとの共同して建てられました。身廊部分の両側に高くヴォールトを切り、そこに小さなギャラリーを作り、その窓から自然光を取り込んでいます。そのため内部全体が垂直的で明るい空間になっています。波打つようなファイヒトマイヤーのスタッコは、柱と天井の隙間をなめらかに溶かし、全体に躍動感のある力強い形態を作り上げています。オットーボイレン修道院聖堂に比べるとやや規模は小さいのですが、全体の完成度はむしろこちらの聖堂の方が高いのではないでしょうか。

筆者のように、大規模な古代建築を研究対象とする者からすると、ロココ建築というのは何か表面的で小手先の印象がありました。しかし、ツヴィーファルテン修道院聖堂のように構造と内部装飾が一体となり、構造体と装飾部の見分けがつかないほど技術が発達すると、まったく異なる建築表現が可能になることを思い知らされました。イタリアのルネサンス建築に始まったヨーロッパの建築活動は、この後過去の様式を繰り返すリヴァイヴァルの時代に突入していきます。その意味で、バロック・ロココ建築は、ヨーロッパが最後に生み出した様式建築でした。技術が高度に発達した現在では、石造の構造体の表面に立体的なスタッコで装飾するなど容易に違いありませんが、当時は、この建築様式の完成に長い時間を要したのです。手仕事による伝統技術が衰退しつつある現在、同じようなバロック・ロココ建築を仮に複製したとしても、ツヴィーファルテン修道院聖堂のような、独創的な建築物を建てられるかと言われれば、かなり疑わしいと思うのは筆者だけではないでしょう。