2012年8月27日月曜日

アンダルシアのイスラム建築

 スペインのアンダルシアは、711年にイスラム軍に征服されてから、15世紀末までの実に800年の間イスラム文化が花開いた地域です。初期イスラム時代に、世界で最も輝いた都市の一つコルドバ、中世を通じてベルベル王朝の拠点となったセヴィーリャ、中世末期にイベリア半島最後のイスラム王朝が置かれたグラナダ。これら3つの都市に残る歴史的建築物を見てみましょう。

コルドバのメスキータ
 中東シリアのダマスカスに首都を置いたウマイヤ朝は、わずか100年足らずで滅び、アッバース朝が台頭しました。アブド・アッラフマーン一世は、アッバース朝の追っ手を逃れてマグレブ(アフリカ北西部、マグレブとはアラビア語で西方の意)へ移動しました。アッラフマーン一世はイベリア半島のコルドバに首都を置き、756年に独立国家を宣言しました。これが後ウマイヤ朝の始まりです。10世紀ごろ、後ウマイヤ朝のコルドバは、ビザンツ帝国のコンスタンティノポリス、アッバース朝のバクダードと比肩するほどの大都市として栄えたと言います。

 メスキータは、スペイン語でモスクを指し、一般には単にコルドバのモスクのことを言うことが多いようです。コルドバは、グアダルキヴィル川の中流域にあり、海岸からは意外にも100 km以上離れています。北に東西に走る山脈、南にグアダルキヴィル川を配し、地中海特有の温暖で安定した気候です。私が訪れたときにも、川を挟んですばらしい景色が望めました。


コルドバ ローマ橋を挟んで対岸にメスキータを望む

 コルドバのメスキータは、後ウマイヤ朝の初代君主アブデル・ラマハンによって784年に建設されたましたが、現在のメスキータよりもはるかに小さいものでした。歴代王朝によって3度の大増築が行われ、現在の姿になったのは、最初の建設より300年も後の、1100年ごろのことです。最終的には175m×128mもの敷地を占めており(マグレブでは最大規模)、その北部の120m×56mが中庭になっています。コルドバのメスキータは、いわゆる「多柱式モスク」の典型というべきもので、礼拝室は19の柱廊に分かれ、南北方向の柱間は、東端部で数えて19スパンもあります。礼拝室全体では、じつに514本もの円柱が使用されています。堂内は、やや背の低い柱の上に、白い石と赤い煉瓦を交互に使った馬蹄形のアーチを二重にかけ、その上に木造天井を架けています。中に入ると、ひやりとした空気と共に、暗い森の中に入るような印象を受けます。


コルドバ メスキータの内部

 モスクは、メッカの方向を示すミフラーブとその壁、および礼拝を呼びかけるミナレットさえあれば良く、キリスト教の教会堂のように、複雑な機能を必要としていません。そのため、ウマイヤ朝のあったダマスカスのモスクのように、広場が大きな「広場型」のモスクや、イスタンブールのスレイマン・モスクのように、ビザンツ建築を模した「ドーム型」のモスクなど、様々な形のモスクが作られました。反対に言えば、モスクはそのぶん簡単に他の建物に改築が可能で、コルドバのモスクでは、礼拝室の中心部にゴシック様式の教会堂が、文字通り挿入されています。これはレコンキスタでアンダルシアを奪回したキリスト教徒が、モスクを取り壊さず、中心部分にだけ教会堂を挿入したものですが、巨大な列柱モスクによってすっぽりと覆われていて、何か付け足した印象が否めません。
 このモスクのハイライトは、最奥部のマクスーラに多弁形アーチを組み合わせたスクリーンや、ミフラブの壁とその前にあるドームで、特にミフラブの近辺は美しいガラス・モザイクで埋め尽くされています。ここには、10世紀頃にこの地で全盛期を迎えたイスラム文化の頂点が示されています。

セヴィーリャ
 後ウマイヤ朝が滅んだ11世紀以降、グアダルキヴィル川下流のセヴィーリャが、内陸港として栄えました。12世紀後半には、北アフリカに興ったベルベル王朝のムワヒッド朝が、セヴィーリャをイベリア半島支配の拠点としたため、次第に発展しました。じっさい、海岸からは70kmほど離れていますが、街の中心部を流れる運河沿いには、レストランが並び、地中海の魚貝類料理を出しています。セヴィーリャでは、ゴシック様式の大聖堂が有名です。もともと12世紀創建のモスクがあったところを、教会堂に建て替えたため、身廊の長さは130mある反面、幅も75mに及びます。天井高さは40mもあるにもかかわらず、ゴシック特有の垂直性よりも、水平に広がった印象があります。


セヴィーリア スペイン・ゴシック様式の大聖堂
 
ゴシック様式よりも興味を引かれたのは、スペイン語でヒラルダ(風見)と呼ばれる鐘塔で、元はモスクのミナレット(塔)でした。また、モスクの北側には、コルドバのモスクと同じように、広場があり、現在もオレンジが植えてあります。その北回廊の中央出口には、イスラム時代の馬蹄形アーチが現在も残っていて、中世イスラム文化の片鱗を覗かせています。

セヴィーリア イスラム時代の馬蹄形アーチの下から大聖堂を見上げる
 

グラナダ
 アンダルシアのイスラム建築を巡る旅の最後は、グラナダです。11世紀にコルドバの後ウマイヤ朝が滅びた後、イベリア半島ではいくつもの王朝ができました。13世紀に入ると、キリスト教徒のレコンキスタによって次第にイベリア半島のイスラム王朝は弱体化し、大航海時代が始まった1492年には滅亡しました。最後の王朝であるグラナダのナスル朝が建てた王宮が、有名なアルハンブラ宮殿です。

 アルハンブラとは、アラビア語で「赤い城塞」を意味するal Qalaa al Hamraが、スペイン語において転訛したものと言われています。宮殿は、グラナダ東部の山の上にあり、東西730m、南北180mの東西に細長い敷地を占めており、その全体を城壁で囲まれています。2つの中庭を中心に作られているメインの宮殿は、主に14世紀に建てられたものです。入り口は西側にあって、二つの中庭を通って謁見室にたどり着きます。謁見室は公的謁見室と私的謁見室の2つに分かれており、それぞれ中庭があります。前者がミルトルのパティオと呼ばれる細長い池と植え込みのある中庭で、後者が獅子のパティオと呼ばれる中庭です。見所は山ほどありますが、中でも獅子のパティオは、ムハンマド五世によって1377年頃から建てられたとされ、イスラム宮殿建築の珠玉とも言うべき完成度に達しています。中央に十二頭のライオンに支えられた十二角形の水盤があり、その四方を128本に達する細い大理石円柱、スタッコの透かし彫りの壁、木製のフリーズなどで構成された繊細なアーケイドが取り囲みます。獅子のパティオの北側には、見事なスタラクタイト(鍾乳石飾り)のドームを持つ、「二姉妹の間」があります。この技術は、イランのイスファハーンなどで発達したイスラム建築技術が、再びイベリア半島に輸入されたものと言われ、中世イスラム建築文化の結晶とも言えるでしょう。中世イスラムの宮殿建築で、これほど完全な形で残されているものは他に例がなく、きわめて貴重な遺産と言えるでしょう。


グラナダ アルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」のドーム