2011年11月28日月曜日

ハイデルベルグ城址と大学町

2011/11/24

アルト・ハイデルベルグ
 ハイデルベルグは、ハイデルベルグ城址、ネッカー川とそこにかかる古い石橋(アルテ・ブリュッケ)によって、外国人に大変人気の高い町です。ゲーテやヘルダーリンをはじめ、多くの文人たちが、ハイデルベルグを舞台にして文学作品を残しています。旧市街(アルト・シュタット)は、第二次大戦中にあまり破壊されなかったこともあり、中世の街並みが比較的残っています。(アメリカ軍の将校となったハイデルベルグ大学の卒業生が、美しい旧市街地が破壊されるのを惜しみ、爆撃を避けるよう働きかけたと言います。)
 旧市街(アルト・シュタット)はネッカー川の下流域にあって、両岸から丘が迫り、川幅が狭くなっていることから、古くから交通の要衝でした。紀元後1世紀ごろには、すでにローマの橋が架けられていたと伝えられています。


ハイデルベルグ城のテラス(Altan)から旧市街とネッカー川とを望む(左手に聖霊教会堂、川の中央に古橋(アルテ・ブリュッケ)、対岸は『哲学の道』)

ハイデルベルグ城址
 2011年7月、はじめてハイデルベルグを訪問しました。冷夏で雨がちだったこの夏にはめずらしく、温かい日差しがさしていました。ハイデルベルグ城は旧市街から100mほど登った丘の中腹にあります。
はっきりした資料は残っていませんが、ハイデルベルグ城が建てられたのは、およそ13世紀初めと言われています。現在残っている城のうち、最も古いのは東側にある塔(2011年現在、修復工事中)で、15~16世紀の建造です。しかし、主な館が建てられたのは16世紀半ばから17世紀初めにかけてのことで、主な建物としてはザールバウ(1549年頃)、オット・ハインリッヒスバウ(1556-63年)およびフリードリッヒスバウ(1601-07年)が残っています。これらの館は、ルネッサンスの導入が遅れたドイツにおいて、初期のルネサンス建築としてよく紹介されています。これらの館を手がけたのは意外にもイタリア人建築家ではなく、オット・ハインリッヒスバウはネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)の彫刻家アレクサンデル・コリン、フリードリッヒスバウはストラスブール(?)の建築家ヨハネス・ショッホです。
 オット・ハインリッヒスバウは、付柱、二連窓、ニッチ、およびニッチに置かれた彫刻などの要素で立面が構成されて、あまりに窮屈な印象を受けます。最上階には、彫刻が二体建っているので、ひょっとすると破風が二つあったのかも知れない。教科書には、フランスと北イタリアの影響を巧みに融合していると説明がありますが、いろんな要素を詰め込みすぎて、ややアンバランスな印象を受けました。



ハイデルベルグ城、オット・ハンリッヒスバウ正面(1556-63年、彫刻家アレクサンデル・コリンの設計?)

 次にフリードリッヒスバウは、ハインリッヒスバウと同じ中庭に面して建てられたこともあって、基本的にハインリッヒスバウの立面を模倣しています。付柱、二連窓、ニッチなどの要素とその配置はそのままです。しかしドーマー窓の破風を二つ配置し、これらを近接して配置することによって、中世的な建築要素を持ち込み、立面の緊張感が増しています。1階から3階までのプロポーションも、上階にいくほど高さを抑えることで(実際には、高さを押さえるのではなく、エンタブラチュア、付柱、窓周りの装飾を豊かにすることによって、二連窓を小さく見せていると思いますが)、より視覚的にバランスの取れた、それでいて緊張感のある立面に発展しています。このあたりに、ドイツ・ルネッサンス建築の独自性があるのでしょうか。



ハイデルベルグ城、フリードリッヒスバウ正面(1601-07年、ヨハネス・ショッホ設計)

ハイデルベルグ大学
 ハイデルベルグを有名たらしめているのは、何もハイデルベルグ城址ばかりではありません。プファルツ選帝侯ループレヒト1世によって1386年に創立されたハイデルベルグ大学は、現在のドイツ連邦にある大学としては最古の大学としてよく知られています。1986年には創立600年を祝ったばかりです。ハイデルベルグ大学は、現在12の学部を持つ総合大学で、神学部、哲学部などの文系学部が旧市街に、医学部、生物学などの理系学部が新市街にあります。
 旧市街の一角には大学(ウニヴァーシテート)広場(プラーツ)があり、大学の旧館が建っています。その二階(日本で言う三階)には、1886年に大学創立500年を記念して建てられた大講堂(Alte Aura)が入っています。建築家はヨセフ・ドゥルムで、新古典様式の内装を施し、画家のフェルディナンド・ケラーが正面の背景画と天井画を描きました。現在では、大学の式典、退官記念講演、卒業式などの際に使われているそうです。どっしりした新古典主義の内装も印象的でしたが、何より創立500年を記念して建てられた講堂が19世紀終わりの建造とは、さすがに驚きました。東京大学の安田講堂が、内田祥三(東京帝国大学営繕部部長、後に東京帝国大学総長も務めた)の設計によって建てられたのが、大正十年(1921年)のことですから。



創立500年を記念した大講堂(1886年、ヨセフ・ドゥルム設計)

 この大学旧館には、大学博物館もあってハイデルベルグ大学の歴史を簡単に勉強することが出来ます。これと合わせてちょっと面白いのが、学生牢です。学生牢は、大学旧館のすぐ裏手にあり、観光客に公開されています。ドイツの大学は、古くから自治権を持ち、秩序違反を犯した学生は学内で罰することが出来ました。(1886年以降は、大学の裁判権は懲戒処分にだけ限定されています。)拘禁期間は2日から4週間だったそうです。パンフレットによると、牢での生活は学生たちにはかえって快適と思われたと言います。実際、拘禁期間中も授業に参加することはできたのですから。学生たちが牢の壁に書き残した「落書き」は、牢での生活を伝える珍しい資料として保存されています。



学生牢の落書き

2011年11月19日土曜日

シュバルツバルトの森を歩く

2011/11/03
シュバルツバルトの森を歩く
 ドイツの秋は早い。10月半ばから木の葉が色づきはじめ、今は黄葉真っ盛りである。ゲーテ・インスティツュートでは、毎週のようにエクスカーションが組まれてる。その中にシュバルツバルトの森へのトレッキング・ツアー(wandern)を見つけ、早速参加してみた。
 フライブルグの中央駅から電車とバスを乗り継ぎ、小一時間ほどで、近場の避暑地として知られるティティ湖(Titisee)へ出た。黄葉した木々が映り込むティティ湖を眺めながら、さらにバスに乗って30分ほど走ると、レンツキルヘ(Lenzkirch)に着いた。このあたりは、日帰りのトレッキングやハイキングの拠点になっているようで、案内所には様々なパンフレットが置かれている。ここを拠点にして、一行は出発した。
 ドイツ人はトレッキング好きだとは聞いていたが、とにかく一日で15キロから20キロ、ひたすら山道(Wanderweg)を歩く。今回は小川に沿って数キロ歩いた後、やや険しい山道を登り、なだらかな道を2時間ほど行くと、ランチ休憩となった。
 好天に恵まれて、多くの家族連れやグループとすれ違った。意外だったのは、20代、30代の若い人が多いこと。普段は学業やアルバイトで忙しくしているはずだが、休日は工夫して楽しんでいる様子。小川の横で休憩していると、次から次にグループが通り過ぎていった。土の色でやや濁った小川の流れを、しばらく眺めていた。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』で、主人公が釣りに出かけた小川も、こんなものかと思った。舞台は確かシュワーベン州の田舎町。ここからもそう遠くない。
 ツアーの主催者は学生連盟であったこともあり、若い学生が多かった。ゲーテの語学学校からの参加者は意外に少なく、数名程度である。参加者の中でも、変わった顔ぶれだったのは、スペイン人でフライブルグ大学で半期授業を持っているという天文物理学者。何度か来日経験があるということで、「はじめまして」と日本語で声をかけられた。他には、情報工学のドイツの大学院生。英語が堪能で、アメリカに留学しロボット開発を夢見ていた。また、ドイツ文学を学んでいるイスラエル人留学生など。
 休憩からさらに5時間歩き、陽が傾いた頃、レンツキルヘ(Lenzkirch)に戻った。そこからバス・電車で乗り継いで、フライブルグへ戻った頃にはすでに真っ暗。そういえば10月末からは冬時間に切り替わったのだった。

2011年11月12日土曜日

大聖堂と運河の町 ウルム

2011/10/30

 6月の初め、バイエルン地方のウルムという町を尋ねました。まだひんやりする早朝に、フライブルグの中央駅から電車に乗り込むと、連休を利用して旅行に出かけるドイツ人ですでに混雑していました。ウルムまでは、ミュンヘンからは特急で一時間半の距離ですが、私の住むフライブルグからは、シュバルツバルトの森を回り込むことになります。カールスルーエまでライン川に沿って北に走り、そこからシュツットガルトへ向けて東へ走ります。シュツットガルトを抜けると、すぐに田舎の景色が見えてきました。

 緩やかに起伏する畑と、時々現れる落葉樹の林は、ちょうどパリ近郊の田舎を思わせます。車窓から見える雑木林は、初夏の陽気を浴びてまぶしいほどです。しばらく見とれていると、ウルム駅に到着のアナウンスがありました。ほぼ時を同じくして、林の上に遙かにそびえる大聖堂の尖塔が目に飛び込んできました。

 ウルムは、地理的に言えばバーデン・ウェルテンベルグ州とバイエルン州に挟まれた小さな町で、十五世紀から十六世紀にかけてドナウ川の水運で栄えました。当時の人口は一万二千人程度と言われています。ドイツでは十字軍以降、封建社会が安定し、中世都市の成立と共に市民が勢力を持ち始め、ゴシック様式での大聖堂の建設が始まりました。ゴシックの建設熱は各地に及び、司教座の置かれていない小さな教区教会でも計画されるようになります。ウルムは、そうした教区教会に建てられた大聖堂の代表例です。

 大聖堂建設には長い年月を要しました。1377年に起工し、度重なる設計者の変更、工事の中断を経て、最後に十五世紀の図面に基づいて西正面が完成したのは1890年と言いますから、実に500年近くも(!)建設活動が続いたことになります。歌人で精神科の医者であった斎藤茂吉が、ミュンヘンに留学し、ドナウ河に沿って旅をしたのが大正十三年(1924年)頃です。茂吉は、ウルムで汽車を降り、その時の子細を『ドナウ源流行』※に詳しく記しています。彼が目にした「大伽藍」は、わずか34年前に完成したばかりだったのです!ちなみに、ウルム大聖堂が完成する一年前には、パリにエッフェル塔(完成当時の高さ313m)が建てられました。エッフェル塔の方が、ウルムの大聖堂より先に完成していたことになります。


 
図1 ウルム大聖堂 西正面 高さ161mはゴシックの大聖堂で最高
 ドイツでは、アミアンを模倣したケルン大聖堂が内陣の工事だけで中断したり、ストラスブール大聖堂の西正面の双塔が一つしか作られなかったため、西正面をひとつだけの塔とする単塔形式が主流になったとされています。そのため双塔形式のフランス・ゴシック建築と比べると、ドイツ・ゴシック大聖堂の西正面は、より高さが強調され、立面としてのバランスは崩れています。大聖堂前の広場に建ち、西正面を見上げると、まるでエンパイヤー・ステートビルのような高層建築の前にいるような感覚を覚えます。ウルムの大聖堂は、高さ161mの塔を備え、ゴシック様式の大聖堂としては最高の高さを誇ります。茂吉が、塔の上から「下の方を覗くと町を歩く人馬がすでに蟻程になって見え」、「眩暈をおぼえた」のも無理はありません。春陽に輝くドナウ川を眺めながら、茂吉は、シュバルツバルトの森からドイツを東西に横切り、オーストリア、バルカン諸国を経て黒海に至る大河に思いを馳せたのでした。また、ドナウ河が国境だった東ローマ帝国と、その後の長い歴史に思いを馳せたのでした。

 大聖堂の内部は、高さを求めすぎたためか、やや間が抜けた印象を受けます。おそらくアーケイドと高窓の間が壁になって、何の装飾もないところが、そのような印象にさせるのかもしれません。ウルムより後に建てられた、ウィーンの大聖堂のような広間式と違って、高窓から十分な採光ができるので、内部は比較的明るい印象です。内陣はきわめて簡素な作りで、これもドイツ・ゴシック建築の特徴とされています。


図2 ウルム大聖堂 内観
 大聖堂を訪ねた後、私も川へ向かって歩いて行きました。ウルムは、ドナウ川とそれに流れ込むいくつかの支流が出会う場所です。町の外れには小さな運河があり、昔の漁師の建物が今も建っています。ちょうどアルザス地方にあるような木造の建物で、川に向かって持ち送りで壁が幾重にも突き出ているのが印象的です。茂吉が尋ねた頃は閑散としていたようですが、今はすっかり観光地化されています。元漁師の家も、ホテルに改装されたものもありました。川の近くに来て旅情を感じるのは、やはり日本人だからでしょうか。しばらくの間、飽きもせず川面を眺めていました。


図3 運河に建つ漁師の家(現在はホテル)
 最後に、ウルムの一風変わった名所として、パン文化博物館を紹介しておきます。古い建物を改装した博物館で、大聖堂のすぐそばにあります。3階建ての館内には、世界のパンの歴史が紹介されています。古代エジプトのパン、ユダヤ人のパン、19世紀に書かれた最初の『パンに関する論文』、工場で大量生産されるようになったパンの製造工程。さらにはナチ・ドイツ時代の食料制限を呼びかけるポスターに登場する「パン」(!)。パンを主食とする世界では、労働に対する対価がパン(=食料)であったことが良く分かります。最後に、人口爆発の現代世界に置いて、世界的な食料危機が迫っていることを警告して、展示は終わります。パンを通して、様々なことが見えてくる、興味深い展示でした。

※ 茂吉の『ドナウ源流行』には、当時のウルムの町が詳しく記されています。

2011年10月30日日曜日

フランス・ゴシック建築(その2)

2011/07/15
イル・ド・フランス=フランス・ゴシック建築を巡る旅

3.シャルトル、ランス、そしてアミアン大聖堂=盛期ゴシック建築
 初期ゴシック建築の基本ができあがると、13世紀初頭から、さらに高い空間、より細い柱、開放的な窓を作りたいという理想を追求してその技術は急速に発展しました。この理想は、シャルル、ランスを経由してアミアン大聖堂でほぼ頂点に達しました。
 柱間一つ分を単位とする四分ヴォールトが採用され、柱には細いリブの装飾が加わり、垂直性の強い意匠に変化したのです。さらに、経験によってヴォールト天井の荷重を受ける壁の推力をどこで支えれば効果的であるかがしだいに了解され、飛梁(フライング・バットレス)を効果的に架けることができるようになりました。これによって、パリの大聖堂で見たように、大アーケイドの柱を高くすると同時に高窓層を拡大することが可能となり、側廊二階のトリビューンを除いて三層構造になりました。この結果、これまで以上に天井を高くしても構造的に安定させることが可能となったのです。パリ大聖堂では32.5mであった天井高は、盛期ゴシックのシャルトルでは35m、ランスでは37.5m、アミアンでは43.2mと、急速に高くなりました。
 高窓は、当初は石をくりぬいて開口部としていましたが、やがて石の骨組み(トレサリー)に変化して行き、その間にはすべてステンドグラスがはめ込まれました。中世からのステンドグラスは、シャルトルを除いてほとんど残っていませんが、当時のステンドグラスは現在のものよりも分厚く、色彩も濃厚で、より神秘的でした。

●シャルトル大聖堂
この大聖堂は、古代末期の聖母像で有名で、当時から多くの巡礼者を集めていました。身廊はトリビューンをなくして高窓層を大きくし、窓を壁面一杯に広げています。この聖堂には彫刻が極端に少なく、かわりに12世紀から13世紀のステンドグラスはほぼ完全に残っていて、中世の雰囲気をよく伝えています。古いステンドグラスは透過する光線の量が少なく、そのため付け柱、アーチ、リブには、凹凸の強いプロフィールをつけて、陰影を強調させたほどです。ステンドグラスは、特に青い色が美しく(シャルトル・ブルー)、今日もゴシック美術ファンを魅了しています。
西正面はロマネスクの影響を残していて、(直径13mの薔薇窓を除けば)きわめて簡素な作りです。これに対し、後に付け加えられた南北面には、ちょうどラン大聖堂西正面にあるような三つポーチがつけられ、きわめて発達しています。ポーチ同士の間も通路で抜けられるようになっています。ポーチは控壁をくりぬいて作っており、構造的に無理が生じて19世紀末に鋼梁で補強されました。このことは、構造的にやや無理をしてでも、軽快に見せようとした当時の傾向を伺わせます。
図7 シャルトル大聖堂 ステンドグラス
図8 シャルトル大聖堂内観 トリビューンがなくなり、高窓層が大きくなった
●ランス大聖堂
この大聖堂は、ゴシックの女王と称される盛期ゴシック建築の代表的作品です。ロマネスクの大聖堂が炎上したため、1211年から建設が始まりました。外陣は3廊式ですが、内陣は5廊式と大きくなっています。
西正面は、パリ大聖堂の水平・垂直区分の手法とラン大聖堂の彫塑的な構成を組み合わせ、完成した盛期ゴシックのファサードを形作っています。シャルトルとは対照的に、二千体の彫刻を外壁にめぐらしていることも、大きな特徴です。


図9 ランス大聖堂南面 控壁と巨大な彫刻で埋め尽くされている

●アミアン大聖堂
 盛期ゴシック建築の中でも最も大きな教会堂で、全長145m、身廊の幅14.6m、天井高さ約42m、大アーケイドの高さは20mにも及びます。側廊を二重として外陣を5廊式とし、大聖堂を大きくしています。また、内陣のアプスを放射状に7つに分割し、周歩廊を隔てて小祭室を7室配置する方法は、効率のよい空間の分割方法であり、その後各地で模倣されました。
 パリ大聖堂と同じく、ヴィオレ・ル・デュクの修理を受けたため、西正面の薔薇窓の上のギャラリーなどが変更されましたが、全体として盛期ゴシックの特徴をよく残しています。


図10 アミアン大聖堂内部 高さ20mにもおよぶ大アーケイドに落ちる高窓の光は、深い森の中にいるような印象を与える


図10 アミアン大聖堂 身廊天井見上げ 四分ヴォールトの横に壁一杯に広がった高窓が見える

フランス・ゴシック建築(その1)

2011/07/15
イル・ド・フランス=フランス・ゴシック建築を巡る旅

 パリとその近郊は、イル・ド・フランス(フランスの島、の意)と呼ばれる地域です。見渡す限り田園風景が広がり、豊かな自然に恵まれています。7月初め、この一帯を見学する旅をしました。目的は、この地域ではじまった、古いゴシック建築を見学するためです。12世紀に始まったゴシック建築は、瞬く間にパリ近郊で広がり、その後にはドイツ、オーストリア、イタリア、スペインなど、ヨーロッパ各国に広まりました。ロマネスク建築が西ヨーロッパにおける多様な地方様式であったのに対して、ゴシック建築はその普及の過程からして、明確にインターナショナルな様式でした。ヨーロッパの建築史を理解する上で、中世のゴシック建築を外すことは出来ません。15世紀末、フランス軍がイタリア半島に進軍し、ルネサンス建築と出会うまでは、ゴシック建築こそが北ヨーロッパの主要な建築様式だったのです。

1.ゴシック建築の技術
 ロマネスク建築のヴォールトにおいては、リブは稜線を明確にするために作られたのに対し、ゴシック建築のヴォールトにおいては天井の基準線として作られています。むろん、リブはあくまでヴォールトを作るための基準線であり、リブが天井を支えているわけではありません。多数の小さな石板を並べたヴォールト天井は、それだけでは安定せず、小割石を入れた石灰コンクリートを裏打ちして固め、荷重によって天井面を安定させています。そのため大きなヴォールト天井では、薄いところでも厚さ数十センチ、隅部では厚さ3~4mにも及ぶのが普通です。
 ロマネスクでは半円アーチが主流でした。スパンの異なる半円は、アーチの高さをそろえることが出来ません。しかし、尖頭アーチは、同じスパンに対しても様々な高さのアーチを作ることができ、逆に異なるスパンに対しても同じ高さのアーチを作ることが出来ます。しかも、尖頭アーチは半円アーチよりもスラスト(水平方向への推力)が小さく、構造的に安定しているというメリットがありました。サン・ドニ修道院付属聖堂(2章参照)に見られるように、台形や多角形の平面に対してヴォールトを架けるには、それぞれの頂点から平面の重心の上方に決めた交差点に向かって尖頭アーチを作図すれば、リブが通る基準線が決まります。この基準線に囲まれた部分をヴォールト天井にするという発見がゴシック建築の始まりです。
 また、ロマネスク建築から受け継いだ正方形ユニットと強弱の柱配置に基づく構成では、身廊の柱間二つ分が一つのユニットとなります。このとき中央の柱の間には、上昇する線の納まりとして横断リブが意匠上必要になります。この結果、正方形ユニットの中は、横断リブと交差リブによって六つに分割されることから、六分ヴォールトと呼ばれます。正方形ユニットの間には、横断リブを支えるやや小さな柱が挿入されるため、身廊の柱は、大小の柱が交互に並びます。六分ヴォールトは初期のゴシックにだけ見られる特徴で、後に横長の一柱間をユニットにした四分ヴォールトに変化していきます。
 身廊を高くするため、これを支える側廊を二階建て(トリビューン)とし、屋根裏部屋(トリフォリアム)を設け、さらにその上に高窓層を設けました。この結果、身廊側面は、下から大アーケイド、トリビューン、トリフォリアム、高窓層の四層構成になりました。屋根裏部屋の上に飛梁(フライング・バットレス)を置いて、高い位置でヴォールトのスラスト(推力)を受け止めることで、ますます身廊の天井を高くできるようになりました。
 以上の、六分ヴォールト・大小の柱の強弱・四層構成が、初期ゴシック建築の特徴です。

2.サン・ドニ修道院付属聖堂=ゴシック建築の発生
 パリ北郊にあるサン・ドニ修道院(Saint-Denis)は、王室霊廟として775年から続く長い歴史を持っています。1136年頃から、その付属教会堂で、大きな改造工事が始まりました。およそ100年後の1231年頃には、円形断面のピアを含む内陣身廊の改造が始まり、1245年ごろから名建築家ピエール・ド・モントルイによって内陣の天井が掛け替えられました。
とくに内陣は、半円形の周歩廊(祭壇の背後にある通路)に石造天井を架ける方法が入念に検討され、台形や多角形平面のセルに石造ヴォールトを架けるには、尖りアーチとリブ・ヴォールトを組み合わせることが有効であることが明らかになりました。周歩廊付近のヴォールトを観察すると、ヴォールト天井の石材の厚みが不均一であるなど、技術的にはまだ稚拙な印象を受けますが、多角形平面の形に合わせてリブ・ヴォールトが有効に使われていることが分かります。
 また、ロマネスク建築で主流であったフレスコ壁画に代わって、ステンドグラスと彫刻による聖書の表現が始まったことも見逃せません。残念ながら当時のステンドグラスは失われましたが、柱間いっぱいに開かれた窓は、壁消失の方向性を明確に打ち出しています。西正面は平坦な壁面が多く、ロマネスク的な重厚さを残していますが、三つの扉口は、人像柱で飾られ、ティンパヌムと重層アーチは聖書の物語を表現し、石のバイブルとしての第一歩を踏み出しています。
図1 サン・ドニ修道院付属聖堂内陣 台形や五角形平面に石造ヴォールトが架けられ、ゴシック建築がはじまった
図2 扉口は、人像柱で飾られ、ティンパヌムと重層アーチは聖書の物語を表現している
2.ノワイヨン、ラン、パリの大聖堂=初期ゴシック建築
 サン・ドニ修道院付属聖堂ではじまった新しいヴォールトの使用は、直ちにパリ周辺の大聖堂に採用され、ゴシック建築の重要な要素である高い天井ヴォールトの出現を用意しました。ここでは初期ゴシックを代表する、ノワイヨン、ラン、パリの大聖堂を紹介します。

●ノワイヨンの大聖堂
 ノワイヨン(Noyon)は、パリの北方にある小さな町で、サン・ドニ修道院付属聖堂の建設直後からゴシック様式としての建設がはじまった大聖堂です。外観はきわめて閉鎖的で、西正面は要塞のような印象さえ受けます。
身廊は、六分ヴォールト、柱の大小の強弱、四段構成の特徴が顕著に見られ、初期ゴシックの特徴を備えています。側廊二階の高さが高いため、高窓層が狭く、内部は全体としてやや暗くなっています。
 

●ランの大聖堂
 ランの大聖堂(Laon)は、パリと並ぶ初期ゴシックの傑作です。ランの町は、パリの北東にあって、小高い丘の上に立っています。そのため大変見晴らしがよく、イル・ド・フランスの広大な平野を眺めることが出来ます。中心部の旧市街地は、平坦な土地が少ないために迷路のようになっており、南イタリアの旧市街地を思わせる街並みです。
図3 ノワイヨン大聖堂、内観


大聖堂の建設開始当初は、西正面の双塔の他、南北正面に双塔を加えるなど、合計7基もの塔を建てる計画でしたが、実際にはその一部しか完成しませんでした。最初に完成した西の双塔は、八角形平面の二階建てになっていて、八角塔の四辺に下部二層を正方形、第三層を多角形にした小塔がついています。小塔の最上部をよく見ると、この大聖堂建設で重い石材を引き上げる重労働を担った牛が彫刻されて装飾となっています。
西正面の意匠は、静的なパリ大聖堂の西正面とは対照的に、ダイナミックな構成となっています。特に、彫りの深い扉口付近のデザインは、南北正面の双塔と共に、各地で模倣されました。内陣は、四層構成で、全ての層にアーケイドをモチーフとしため、全体として均一的で整った印象を受けます。

●パリの大聖堂
パリの大聖堂は、ランと並んで初期ゴシック建築の傑作です。ランとは対照的に、静的で整った西正面がまず印象的です。双塔の基部には、レースのようなコロネードが配置され、中央の薔薇窓層と、双塔の高窓の間を巧みに調和させています。
図4 ランの大聖堂 西正面 彫りの深い扉口は、アミアンなど多くの大聖堂で模倣された。塔の最上部には、大聖堂建設で活躍した牛の彫刻がある。
外陣を建設中であった1180年頃に、はじめて飛梁(フライング・バットレス)が使われました。スパンが15mにも達する内陣の飛梁は、13世紀頃に加えられたもので、それ以前は壁体上部を鉄のバンドで締める方法がとられていました。身廊の石造天井は、ノワイヨン(23.5m)やラン(25m)よりもかなり高く、32.5mあります。身廊は、四層構成であったものを、1230年ごろ丸窓のトリフォリウムを高窓に吸収して三層構成に変更されました。1845年になって、有名なヴィオレ・ル・デュクによる修復が行われ四層構成に戻され、現在は四層構成の姿が観察できます。石造天井は、身廊が六分ヴォールト、側廊が四分ヴォールトになっていて、建設技術の変化を見ることが出来ます。

図5 パリの大聖堂 西正面

図6 パリの大聖堂 南面外観 右手にスパン15mの飛梁が見える

ロンシャンの礼拝堂

2011/06/11

ロンシャン
 建築関係者で、ロンシャンの礼拝堂(Chapelle Notre-Dame du Haut)を知らない人はいないでしょう。ロンシャンの礼拝堂は、近代建築の基礎を築いたル・コルビジェの作品で、いまも世界中から見学者が訪れます。
 ロンシャンは、フランスのアルザス地方の南、オート・ソーヌ県に位置し、フライブルグからは車で1時間半ほどの距離です。フライブルグからバーゼルへ向けて南下し、途中、ローマ時代から続く温泉保養地のバーデンワイラーに近い、ノイエンブルグでライン川を渡り、フランスへ入りました。ミュールーズを抜け、ベルフォートで高速を降りると、しばらく田舎道を走ります。ゆるやかな峠を抜けると、そこはロンシャンの村です。峠からまっすぐ村へ伸びる道の先に、ブーレモンの丘があり、その頂上に真っ白な礼拝堂が見えてきます。

図 1 ロンシャンの礼拝堂、外観

ロンシャンの歴史
 ロンシャンは、人口わずか3000人の小さな村です。炭鉱と林業が主な産業で、目立った観光資源はありません。しかし、その村の背後に立つブーレモンの丘は、古くからキリスト教の巡礼地として知られてきました。1922年には、ネオ・ゴシック様式でチャペルが建てられましたが、第二次大戦中に大きな破壊を受けました。戦後まもなく、ブザンソンの委員会によって、新たな礼拝堂の建設が検討されました。そこでは、戦後の新しい復興を願って、人々に開かれた、新しくて、自由な精神を表現する必要性が議論されました。その結果、建築家として指名されたのがル・コルビジェです。コルビジェはカトリックの熱心な信者で、ドメニコ会の修道士と親交があり、この人物からの助言があったとも言われています。
 1950年12月に委員会に提出された模型には、最初から貝殻のような独特のシェル構造が表現されていました。それは、若い頃からコルビジェが強く主張したいわゆる近代建築の五原則「ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面」とはまったく異なるものです。晩年のコルビジェは、鉄筋コンクリート技術の発達に支えられて、それまでの作品にはなかった新たな表現に達したのです。
図 2 礼拝堂、内観

礼拝堂の設計
 ロンシャンの礼拝堂は、次の三つ要素で構成されています。第一の要素は、厚く白い壁です。礼拝堂を最初に見た人には、まずこの壁が印象に残るのではないでしょうか。特に厚さ3m近くもある南壁は、圧倒的なマッシブさで、建物の存在を主張しています。壁の表面は複雑な曲面を描き、白い吹き付けによる仕上げは、日の当たり方で様々な表情を見せます。白い壁は、建物の外も中も同じ仕上げになっていて、壁による空間の連続性が意図されています。勿論この建物には、一つもまっすぐな壁はありません。
 第二の要素として、壁に開けられた様々な形の開口部があげられます。特に分厚い壁には、大きさの異なる大小の窓が、ランダムに開けられています。窓というよりもちょっとした穴といった方がいいかもしれません。窓の大きさは、外部と内部で巧みに大きさを変えており、その結果、礼拝堂の内部には、複雑な光が入り込んできます。これらの窓には、様々な色のガラスがはめ込まれています。そこには、ゴシック様式の教会堂にあるステンドガラスの伝統があることはもちろんですが、コルビジェはこれをまったく異なる現代的な芸術として表現しました。同様に東側の壁には、非情に小さな窓=穴が開けられ、礼拝堂の席に座ると、壁の間に小さなライトがはめ込まれているような印象を受けます。このように、開口部を工夫することによって、光を巧みに操作しています。他にも、壁と屋根の間には、わずかにスリットが開けられ、その間から採光するようになっています。図面で見るとかなり暗い印象を受けますが、実際には礼拝中にテキストを読める程度の明るさが確保されています。

図 3 南壁と開口部

 第三の要素として、シェル構造の屋根が上げられます。コルビジェがこの建物を設計したとき、彼の製図机には、ロング・アイランドから持ち帰った貝殻があったとも言われています。この独特のシェル構造は、まったくコルビジェの独創的なデザインで、厚くて白い壁と共に建物全体の性格を規定しています。それは、ロマネスク教会堂のような丸いヴォールト天井でもなく、高いゴシックの教会堂の天井でもなく、これまでにないまったく新しい形です。このシェル構造の天井は壁によって支えられていますが、北東の部分だけはどうしても柱で支える必要があったようです。しかし、この柱は白い壁でカヴァーされており、コルビジェが徹底して柱梁構造を排除しようとしていることが分かります。

図 4 礼拝室からみた南壁

様々な工夫と仕掛け
 この基本要素以外にも、こまかな建築的な仕掛けが施されています。ゴシック様式のような伝統的な建物と違い、ほとんど矩形の平面をしたロンシャンのチャペルでは、説教台への視線の集中が少なくなってしまします。そこで、床を西から東へ向かってわずかに傾け、訪問者の視線が自然と説教台へ向かうように工夫されています。また、コルビジェが自ら設計した座席は、北側の出入口の近くには設けず、説教台に近い南側にまとめられています。座席に座れば、東壁を大きくくりぬいた開口部に置かれた聖母マリアの像が、自然と目に入ってきます。
 また、礼拝堂の南西隅には、高い円筒形の壁を利用して、小さなサイド・チャペルも設けられています。説教台には、ほぼ真上から間接光が注ぎ込み、丸い壁に美しい陰影を作り出しています。
近代の建築理論家としてスタートしたコルビジェは、機能性・合理性を重視したモダニズムの表現者でした。彼の「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という主張はあまりにも有名です。しかし、このロンシャンでは、その理論の表現ではなく、むしろ画家としてスタートしたコルビジェの素直な造形表現が反映されています。礼拝堂の光と影による表現は、装飾を徹底して廃した近代建築にあって、最も重要な建築装飾であることが期待されているのではないでしょうか。すなわち、近代建築の理論に、自由な造形とマテリアリズムを持ち込んだ点に重要性があるのではないでしょうか。その意味では、ロンシャンの礼拝堂には、近代建築の理論への反省と工夫が現れていると言ってもいいかもしれません。それにしても、ロンシャンの礼拝堂は、美しいロケーションと共に、深く印象に残る建築でした。


図 5 サイド・チャペル

ストラスブール

2011/05/29

ストラスブール
 ストラスブールは、フライブルグから電車でわずか一時間ほどの距離です。普段の週末を利用して、訪問できるほどの近さです。オッフェンブルグでストラスブール行きのローカル線に乗り換えると、車内アナウンスもドイツ語とフランス語が同時に流れるようになります。ライン川を越えると、すぐにストラスブール中央駅です。
 ストラスブールの街は、ライン川の支流であるイル川の中洲に発達した街です。中州の大きさは東西1.5km、南北1kmほどの大きさです。西端には、ライン川の水量を制御する古い水門があり、その付近には16世紀や17世紀の古い民家が残っています。この地域は、プチ・フランスと呼ばれ、観光客には大変人気のある地域です。旧市街地は、「ストラスブールのグラン・ディル」として1988年にユネスコの世界遺産に登録されました。

ストラスブールの歴史
 ストラスブール(Strasburg)はその名の通り、ライン川による南北の物流と、東西の主要幹線道路とが交差する交通の要所にあって、古くから開けた街でした。ローマ帝国がゲルマニアとの国境をライン川に持っていたときには、ローマ領の前衛都市でありました。そのため古いローマの街道に沿って、浴場や墓などの遺跡が見つかっています。フランス風ルネサンス様式で建てられたパレ・ロアンの地下は、現在考古学博物館として使われていますが、その展示内容はフランス国内でも有数のコレクションです。
図 1 現代的に改装されたストラスブール中央駅
 ストラスブールは、かなり複雑な歴史を持っています。古くからカトリックの司教座が置かれ、毛織物業で主に発達しました。1523年には、宗教改革の影響を受けて早くもプロテスタントを受け入れ、カトリックとプロテスタントの両方の教会が共存するようになります。1697年に、リスビックの和平によりフランス王国の領域に入り、ドイツ語名のシュトラースブルクはフランス語風のストラスブールと呼ばれるようになります。普仏戦争でプロイセンが勝利すると、アルザス・ロレーヌ地方はドイツ帝国領に復帰します。さらに、第一次世界大戦でフランスが勝利すると、1919年には再びフランス領となります。1940年に再びドイツ領となりましたが、第二次大戦を経て、1944年に再びフランスに復帰したのでした。
 このように、ドイツとフランスの国境に位置するストラスブールは、ヨーロッパの歴史を象徴する都市といえるでしょう。その歴史に因んで、ヨーロッパ諸国連合(EU)の主要な国際機関が置かれました。街を歩けばフランス語が聞こえてきますが、市民のほとんどはドイツ語も話せるバイリンガルです。交通の要所であったストラスブールには、多くの文化人が滞在しました。活版印刷を発明したグーテンベルグや、カルヴァン、ゲーテ、モーツァルトなど、日本人にもなじみ深い人々の名前が歴史に刻まれています。
ノートル・ダム大聖堂
 その中央にそびえるのが、中世の歴史を象徴する大聖堂です。高さ142mという尖塔は、ハンブルグの聖ニコライ大聖堂が完成するまで、教会堂で最も高かったと言います。
図 2 ストラスブール大聖堂
  旧市街地の狭い路地を抜け、大聖堂の正面にたどり着くと、巨大な正面が目に飛び込んできます。そのマッシブな存在感は、大聖堂広場全体に行き渡っています。1015年にロマネスク様式で建設されましたが、1225年にシャルトルの石工職人がストラスブールに到着し、ゴシック様式として建設が始まりました。西側面の建設が始まったのは1270年で、地上から66mの高さにあるテラスまでが建設されました。その後、二つの塔の建設が計画されましたが、実際には北側の一つの塔だけが建設されました。建設活動は、ロマネスク様式を含めると、1176年から1439年と、実に250年近くの年月がかかっています。これはディディマのアポロン神殿の建設活動に匹敵する長さです。
 西正面の細い垂直の付柱は、一見無作為に見えますが、一説によれば単純な八角形を展開して作図したのもだそうです。柱の隙間には、数多くの彫刻が載せられ、その数は2000を越えると言います。大聖堂のファサードは、ゴシック建築の建設活動熱をよく象徴しているといえるでしょう。
図 3 聖トーマス教会
聖トーマス教会とオルガン
 大聖堂広場からやや南へ下ったところにある聖トーマス教会は、大聖堂とは対照的に質素で控えめな建物です。
 ベネディクト派のアセンブリー・ホール(集会所)として建てられ、宗教改革時にはルター派の教会堂となりました。東側のアプスに向かって一直線に視線を集中させるのがカトリックの大聖堂ですが、聖トーマス教会では、交差部の真下に説教段があり、そこに向かって座席が並べれ、視線が集まるようになっています。柱はリブがつけられていて、その部分だけゴシック様式の影響が見られますが、窓は小さく、広い壁面にはほとんど装飾がありません。アプスには、祭壇の代わりに、ナポレオン時代の英雄の彫刻が置かれています。
 さて、この聖トーマス教会は、バロック・オルガンの有名な職人、ゴットフリート・ジルバーマンのパイプオルガンが保存されています。18世紀にはモーツァルトがこのオルガンで演奏し、さらに、アルベルト・シュバイツァーが頻繁に演奏しました。1905年にシュバイツアーが開いたバッハ演奏会は大変好評で、それ以降、毎年のように演奏会が行われるようになりました。天才オルガニストとして将来を約束されていたシュバイツアーは、30歳になってからは人々のために生きるという自らの人生哲学に従い、周囲の反対を押し切って、一から医学の道に進んだのでした。アフリカでの医療と伝道の資金を稼ぐために、時折ストラスブールへ帰って演奏会を開きましたが、それもこの聖トーマス教会だったのです。
 私が訪問した際には、偶然にもオルガニストによる演奏会があり、生でパイプオルガンの音色を聴く機会を得ました。ドイツのカール スルーエ出身という若いオルガニストは、最初は小さなオルガンでリストの難曲を演奏した後、パイプオルガンでビバルディやバッハの曲を演奏してくれました。他の大聖堂で聞くパイプオルガンと違って、やや素朴な音色が印象に残りました。バッハの近代的な演奏法を批判し、オルガン演奏法を改良したシュバイツアーに思いをはせたことでした。


図 4 シュバイツアーとオルガン

フライブルグの旧市街

2011/05/14

フライブルグの建築
 フライブルグの町は、ドイツの多くの町と同じく、第二次大戦によって旧市街地の大半を消失しました。戦後の復興時には、多くの歴史的建造物が再建されました。その際、旧市街地には原則として新しい建物を建てないことが守られたのです。おかげで、現在も古い中世の町の雰囲気を色濃く残しています。日本も第二次大戦によって町を消失しましたが、ドイツの町とは全く異なる復興をしたと言えるでしょう。フライブルグは、戦後の経済復興と共に発展を遂げ、現在では環境都市として世界中に知られるまでになりました。ここでは、フライブルグに残る古い建物と、環境都市としての先進的な取り組みの事例を見てみます。
図 1 フライブルグ大聖堂正面

大聖堂
 フライブルグで最も古い建物は、もちろん大聖堂(ミュンスター)です。建設に何百年とかかる大聖堂の歴史は、そのまま町の歴史を示しています。ガイドブックによれば、1200年にロマネスク様式として建設が始まり、1230年頃からゴシック様式に変更され、幾度かの中断を経て、1330年に完成したようです。1330年の完成は、ゴシック様式の大聖堂の建設には、通常何百年とかかるため、ドイツではかなり早い時期に建設が終了したと言われています。
 西正面に一つだけ高い棟を配置し、トリビューンがあまり発達していないところに、ドイツ・ゴシックの建築的特徴が現れています。また、ライン川付近で採掘される赤褐色の砂岩が用いられ、その独特の色合いが、他の大聖堂と違った雰囲気を作り出しています。同様に、ライン川で採れる赤褐色の砂岩で出来た大聖堂として、バーゼルの大聖堂が挙げられます。バーゼルの大聖堂は、フライブルグ大聖堂の建設よりも15年早く建設が始まったことから、建築家や石工はバーゼルでも仕事をした人ではないかと考えられています。ちなみにバーゼルの大聖堂では、西正面に二つの塔を配置し、開口部が少なく、より閉鎖的な点がロマネスク様式のデザインを引き継いでいると言えるかもしれません。フライブルグの大聖堂も、南側側面に、ロマネスク様式の部分とゴシック様式の部分とが併存し、両方の様式を観察することが出来ます。
図 2 フライブルグ大聖堂南側面

 鐘楼までの高さは116mあり、棟の先端にあるスケルトン構造は、フライブルグで始めて用いられたデザインであったため、多くの大聖堂が追随して、よく似た鐘楼を建てました。残念ながら、2011年現在は修復中で見ることが出来ませんでしたが、代わりに修復現場を見学できるようになっています。棟の内部は石造ではなく、基本的には巨大な木造構造でした。

大聖堂広場
 大聖堂の周囲は広場になっていて、古くから食料品や商取引の場所として使われていました。そのため、商取引の監督局もおかれ、特別に建物が造られたほどです。この商取引の建物(ヒストリッシェン・カウフハウス)は、第二次大戦中に幸運にも戦火を免れた数少ない建物の一つです。赤い外壁が遠くから目を引きます。広場に向かってファサード一階部分にアーケードを設け、左右の端部に小さな棟を備えています。二階の柱には、ハプスブルグ家の一族の彫刻と旗が並んでいます。
 また、パンやワインなど日常的な食料品が取引されていました。特にパンは生活必需品であったため、不正な売買を規制すべく、大聖堂正面入口にパンの線画が描かれ、いわば標準尺として使用されていました。
 大聖堂広場は、現在も日曜と祭日を除いて毎日市場が開かれています。フライブルグのあるドイツ南西部は、国内で最も温暖で湿潤な気候であり、農産物や畜産物が豊富です。そのため、近郊の農村部から毎日のように新鮮な食料品が運ばれてきます。春先には白アスパラガス、初夏にはサクランボが豊富に出回ります。


図 3 大聖堂広場に建つ商取引所(Historischen Kaufhaus)

市庁舎広場(ラートハウス・プラーツ)
 旧市庁舎(アルト・ラートハウス)および新市庁舎(ノイ・ラートハウス)も、ともに空襲に遭い、現在の姿は古写真を元に修復したものです。旧市庁舎は、ドイツ・ルネッサンスと呼ばれる様式だそうで、イタリアでルネッサンスが起きてから、多くの建築家がイタリアで学び、建てたものの一つということです。正面ファサードだけでなく、内装も当時のままに復元し、現在はツーリスト・インフォメーションとして、観光客を受け入れています。
 市庁舎の前は小さな広場(ラートハウス・プラーツ)になっていて、カフェや商店がならんでいます。友好都市記念行事や、クリスマス市など、公の行事があるときには、小さなテントが並んで賑わいを見せる場所です。先日は、友好都市の記念行事が開かれ、フライブルグの姉妹都市の一つである、日本の松山からの出品がありました。

図 4 旧市庁舎 ファサードは戦後に修復された

図 5 町中の至る所を流れる水路(ベッフレ)

小さなプロムナード(ベッフレ)
 フライブルグの旧市街地には、小さな水路(ベッフレ)がくまなく走っています。これは、中世の都市図に、生活用水としてドライザム川から水を引いた様子が描かれていたのをヒントに、戦後になって新たに作られたものです。よく見ると、町の至る所を走っており、水路を追っかけるだけでも、楽しい散策が出来ます。この水路は、あくまで街の装飾のためで、生活に使われることはありませんが、シュバルツバルトの森の豊かさを連想させてくれる楽しい装置です。水量は常時コントロールされているため、雨が降ってもあふれることはありません。ガイドの話では、この水路にうっかり落ちた若者は、その年にフライブルグで結婚する運命にあるとか。

環境都市としての取り組み
 さて、最後に環境都市としての取り組みを簡単に紹介しましょう。環境都市としてのフライブルグの取り組みは、決して最近の話ではありません。1960年代にシュバルツバルトの森が酸性雨で被害を受けてから、一貫して環境都市としての町作りに取り組んできたのです。環境都市としての取り組みは、大きく分けて公共交通の整備と、エコ・エネルギーの導入の二つに分けることが出来るでしょう。
 まず、公共交通の整備は、旧市街地への自家用車の乗り入れを厳しく規制することで、中心部の渋滞と排気ガスによる公害を減らすことを目指しています。車の規制をする代わりに、トラム(ストラッセンバーン)を計画的に導入し、市内を隈無くカバーしています。市民は、レッギオ・カルタとよばれる定期券を購入すると、市内のトラムやバスだけでなく、フライブルグの経済圏である周囲約35kmの農村まで、電車やバスを無料で利用できるという特典があります。そうすることで、都市部と農村部の人の動きを確保し、経済的に不利益を生じないようにしています。トラムの路線の建設は、市電だけの個別の予算ではなく、道路整備の予算としてカバーされている点も見逃せないでしょう。
 また、自転車での通勤・通学を奨励しており、ほぼ全ての道路に自転車道路が整備されています。そのため日本のように歩行者と自転車とで事故が起こることも少なく、自転車の後ろに大型のベビーカーを増設して、町中を走り抜ける女性をよく見かけます。


図 6 環境掲示板:オゾンなどの大気汚染の程度が常時表示されている

エコ・エネルギーの取り組み
 エコ・エネルギーの導入は、福島の原発事故が起きた日本にとって、現在切実な課題といえるでしょう。同様に原発をもつドイツでは、学生を中心に根強く反原発の動きがありました。3月の地方選挙の結果を受けて、メリケル首相ひきいるキリスト教民主同盟は原発全敗に舵を切ったことは周知の通りです。それは何も日本で原発事故が起きたからだけではありません。遡れば、60年代の公害問題、そしてチェルノブイリの原発事故が、忘れ得ない記憶として市民に共有されているのです。
 先日、ドイツの大学院生と話をする機会がありましたが、彼はこの反原発の動きが、ドイツ国内だけでなくヨーロッパ全体に広まることで、ドイツがエコ・エネルギーのリーダーシップを担って欲しいと願っていました。市民の意識が政策に反映されているのです。つい先日、菅首相はG8の席上で最高水準の原子力安全を目指すとして、原発推進を基本的にやめない方針を示しました。しかし、果たしてこれが福島県民に受け入れられる話かどうか、かなり疑問と言わざるを得ません。先のドイツ人学生は、日本は高度に近代化された国でありながら、なぜ原発推進者が調査の対象とされ、社会的責任を追及されないのか、理解に苦しむと話していました。その後、多くの研究者や学生と議論しましたが、この点はみな共通した感想のようでした。
 フライブルグでよく目にする太陽光パネル発電装置は、日本では考えられないほど普及しています。ドイツの電力会社が本格的に民営化されているため、かなり小さな電力会社が参入しています。家庭や小さなオフィスで生産された電力の内、余分に生産された電力を、電力会社が買い取ることもできるのです。ドイツでは、基本的に電力会社を買い手が選ぶことができるため、電力がたくさんあまれば、その分電力を高く売ることが出来るのです。無論、このやり方にはライフラインである電力を市場原理に任せてしまうという危険性がありますが、競争のない日本の電力市場は、逆に柔軟なビジネスチャンスをつぶしていると言えるでしょう。
 フライブルグ南部には、エコロジーを先進的に導入したエコ・タウンがあります。トラムの終着駅の近くには、自転車通勤・通学者のための高層自転車置場があり、その屋上はすべてソーラーパネルという作りです。エコ・タウンには、このような実験的な仕組みが数多く導入されているため、学生に人気が高く、最も空き物件が見つけにくい地区になっています。


図 7 巨大な自転車置き場(屋上には太陽光パネルが並ぶ)

ヴィトラ

2011/05/01

ヴィトラ
 現代建築や家具に興味がある人にとって、見逃せないのがヴィトラ・ミュージアムです。ヴィトラ・ミュージアムは、スイスのバーゼル市郊外にある小さな町にある家具メーカの博物館です。ドイツ領にあって、バーゼルからはバスで20分ほどの距離です。
 ヴィトラは、もともと1950年代に家族経営の小さな家具職人から始まりました。1980年ごろに工場が火事で焼け、生産中の家具を含め、創業当時から集めていた家具のコレクションをほとんど失いました。これを機に、経営方針の根本的な改革が行われ、環境や持続可能性を考えた経営方針が取られるようになりました。現在、工場はビィトラの郊外の、美しい田園の中に建っています。
 工場は総面積で250,000平米ありますが、建物が慎重に配置され、およそ工場という印象はありません。バス停を降りると、早速現代建築家の作品群が目に飛び込んできます。バス停もジェスター・モリソンという建築家の作品です。金属板とガラス板を組み合わせた、シンプルなバス停です。


ヴィトラバス停 ジェスター・モリソン 2006年

 工場の正面玄関に立つと、2つの建物が目に飛び込んできます。向かって左手が、フランク・ゲイリーのヴィトラ・ミュージアムです。白い外壁と、曲面を駆使した複雑なフォルムが印象的です。フランク・ゲイリーと言えば、ビルバオのグッケンイム美術館で一躍世界の建築家として有名になりましたが、ヴィトラ・ミュージアムは、彼にとってヨーロッパで最初の作品とのことでした。そこには、これから活躍が期待される若い建築家や、ヨーロッパでは無名ながらも優れている建築家を意欲的に招待し、活躍の場として支援したいという、ヴィトラ経営陣の考え方が現れています。
 ヴィトラ・ミュージアムは、正面玄関を除いた開口部を作らず、白い彫刻のような外壁で作られた、きわめて閉鎖的な建物です。ガイドの説明によると、ゲイリーは設計時に周囲の桜の木を全て切り取り、建物がよく見えるようにしたいと、強く希望したとのことです。
 内部へ入ると、小さな展示室をいくつも組み合わされていることが分かります。複雑な平面をした小さな展示室が、床レベルを変えながら次々につながっています。所々で、トップライトのある螺旋階段を通りますが、これは外壁の不思議な曲面と一致しています。このように複雑な空間構成ですが、内壁も外壁と同じように白い色で統一され、一つの統一された建築であることを意図しています。やはりガイドの説明によれば、白くて曲面の多い外壁は、現代建築の父とされるル・コルビジェのロンシャン教会堂の影響を受けたと、設計者自身が語ったそうです。ロンシャン教会堂と言えば、このヴィトラから車で小一時間ほどのフランス領にあって、きっとゲイリーも見学に行ったに違いないでしょう。最先端の現代建築をリードするゲイリーにとっても、ル・コルビジェの存在はヨーロッパの長い歴史と共に、無視できない存在なのです。


ヴィトラ・ミュージアム フランク・ゲイリー設計 1989年

 ヴィトラ・ミュージアムの奥には、安藤忠雄設計の研修所があります。安藤は、ゲイリーと対照的に周囲の桜の木を残し、木の高さよりも低い外壁を設け、地下に建物を設計しました。長いコンコースとしてのコンクリート壁で囲まれた前庭は、まるで修道院のような静けさと緊張感が漂っています。コンクリートを使いながらも、ゲイリーとは全く対照的な建築です。安藤は、日本で用いられる尺貫法を用い、横93センチ縦196センチのグリッドでできた打ちっ放しのコンクリートを使用しています。可能な限り天井や床のグリッドと、壁面のグリッドを一致させるように、建設現場で厳しく指導していたと、これもガイドによる説明がありました。安藤忠雄は、いまでは海外で最も一般に知られる日本人建築家で、若い頃にボクサー志望であったことなど、細かな履歴まで知られていたことに驚きました。


ヴィトラ本社工場の研修所 安藤忠雄設計 1993年

 正面玄関に向かって、右手には、昨年(2010年)2月に開館したばかりの、ヴィトラ・ハウスがあります。ヴィトラ・ハウスは、これまで顧客にしていたルフト・ハンザ航空のような大手の会社だけでなく、個人客にも直接家具を見る機会を持ってもらおうと、新たに建てられた建物です。スイスの建築家、ヘルツォーク・アンド・ド・ムーロンによる設計で、これまで見たことのないような不思議な外観をしています。建物には、家の形の断面をした十二個の長いボックスによって構成されています。断面が家型をしているのは、一般住宅で使用する家具を展示・販売する建物であることを表しています。ボックスの端部は、全面がガラスの開口部で出来ており、外から中の様子がよく見えるようになっています。逆に端部以外は、深い茶色の外壁で覆われ、中の様子は全く分かりません。このような形をしたボックスを向きや高さを変えながら複雑に組み合わせることによって、全体の建物が構成されています。ボックスの隙間や周囲には、半屋外のスペースが設けられ、ベンチで腰掛けたり、カフェがあってお茶を飲んだり出来るように工夫されています。大変人気のあるハウスで、私の訪問中にも、小さな子どもを連れた家族が、自転車や車で次々と訪れ、ピクニック気分で楽しんでいました。

ヴィトラ・ハウス ヘルツォーク・アンド・ド・ムーロン設計 2010年

 他にも工場内には、建築のノーベル賞といわれるプリッカー賞を受賞して、一般にも知られるようになった日本人建築家ユニットSANAA(妹島和世と西沢立衛)や、ポルトガルのアルヴァロ・シザ、当時はヨーロッパでは無名だったイラク出身の気鋭の建築家ザハ・ハディッドなど、多くの有名建築家が設計した建物があります。このように、ヴィトラは一種の建築博物館的な場所となっていますが、残念ながらヴィトラ・ミュージアムとヴィトラ・ハウスを除いて、一般には公開されていません。ただ、希望者にはガイドによるツアーがあり、ザハ・ハディッドの消防施設と、安藤忠雄の集会所は、有料で見学できます。特に、実施作品が少ないハディッドが設計した消防施設は、現在使用されておらず、内部までゆっくりと見学できます。


ヴィトラ消防施設 ザハ・ハディッド設計 1994年

バーゼル




2011/04/28

バーゼルの町
 復活祭の休みを利用して、バーゼルを訪問しました。バーゼルは、フライブルグからライン川に沿って50kmほど上流にある、スイスの町です。人口は20万人ほどで、同じライン川沿いのストラスブールやフライブルグと同じぐらいの大きさですが、スイスではチューリッヒ、ジュネーブに次ぐ、主都市(Hauptstadt)です。ドイツ、スイス、フランスの国境に面するため、ドイツからは国境を越えて行くことになりますが、国際化が進んだ現在は、入国審査は省略されているようです。長い間、ライン川の北側がドイツ領、南側がスイス領であっため、現在でも中央駅が2つあります。今回は、ドイツ領の中央駅から入りました。

バーゼル大学
 ドイツの古い町には大学があるのと同じく、バーゼルにも古い大学があります。1459年の創立以来、500年を越える歴史を持つバーゼル大学は、多くの著名な研究者を輩出しました。古くはエラスムスが滞在し、18世紀にはオイラーの定理で知られる数学・物理学者のレオンハルト・オイラー、19世紀には日本でも有名なフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが教鞭を執りました。最近では、哲学者のカール・ヤスパース、神学者のカール・バルトが教えたことは、記憶に新しいところです。バーゼルは古くから出版業も盛んで、1536年にはジャン・カルバンの『キリスト教綱要』の初版がラテン語で出版されました。
 大学のキャンパスは、町の中心部に点在しています。キャンパスのある町の中心部には、トラムやバスが縦横無尽に走っています。学部ごとに建物は別々になっていて、どの建物が大学の建物か、注意してみないと分からないほどです。日本のように近代になって新たに整備した大学キャンパスとは、全く対照的です。

ライン川を挟んで、スイス側の旧市街地を望む

バーゼルの美術館・博物館
 バーゼルは、芸術や文化の理解が深く、小さいものも含めると30を越える博物館や美術館があります。最も大きい市民博物館(Kunstmuseum)は、中世の宗教美術(マルティン・ルターの肖像画!)から、モネやルノワールなど印象派の時代の絵画を経て、キュビズムやシュールレアリズムなどの近代絵画や、20世紀の現代彫刻まで揃っており、古代を除けば西洋美術を一通り学ぶことができます。また、市民美術館の向かいにある古代博物館(Antikenmuseum)は、古代研究者にとって見逃せない存在です。ギリシア・ローマの彫刻のコレクションと、南イタリアで発掘されたクラシック期の陶器のコレクションがあります。さらに見逃せないのは、彫刻博物館(Skulputrhalle)でしょう。ここには、アテネのパルテノン神殿から各国に運び出されたフリーズの浮彫装飾のコピーがすべて揃っています。そのため、美術史研究者には、密かに知られた博物館です。前年ながら、今回は閉館中で見学できませんでした。
他にも、動く彫刻(キネティック・アート)で有名なティンゲリーの作品を集めた、ティンゲリー美術館(Museum Tinguely)も見逃せません。ライン川沿いに建てられたティンゲリー美術館は、旧市街地から少し離れていて、落ち着いて魅力的な博物館です。博物館の隣の庭に作られた小さな池には、水の中で動くティンゲリーの代表作を見ることができます。美術館だけでなく、『噴水の劇場』で知られるシリーズが、バーゼルの街中にも置かれ、市民の目を楽しませています。パリを拠点に活躍したため、私が訪れたときにも、さすがにフランスからの観光客を多く見かけました。同じキネティック・アーティストのアレクサンダー・カルダーの作品も、市民美術館で見ることができます。キネティック・アート・ファンにとって、バーゼルは必見の場所でしょう。

ティンゲリー美術館と動く彫刻、マリオ・ポッタ設計 1996年

死の舞踏
教会堂を改装した歴史博物館では、バーゼルの歴史を学ぶことができます。ここには、バーゼルの歴史にまつわる様々な遺物が保管されていますが、その中でもユニークなのは、死の舞踏(Todendanz)の壁画でしょう。死の舞踏は、おそらくペスト流行が契機と考えられていますが、はっきりしたことは分かっていません。この壁画は、バーゼル市内のフランチェスコ派の教会の壁に描かれていました。骸骨の姿をした「死」が、ヴァイオリンや太鼓を手に踊り出し、王、王女、聖職者、学者、農夫と、様々な人物が、死の舞踏に誘われるというものです。興味深いのは、骸骨が、対になって踊る人間自身の死者として描かれていることです。それは、どのような階級の人間も、死の前では皆が平等であることを暗示しています。この壁画は、生きた人間の部分を除いて打ち壊されたため、残念ながら完全な骸骨の絵は残っていません。しかし、残った絵の一部は、コレクターによって奇跡的に保存されたのです。

バーゼル歴史博物館所蔵、復元された壁画『死の舞踏』の一部

バーゼルの現代建築
 バーゼルには古い建物だけでなく、新しい現代建築があることでも知られています。世界的建築家のヘルツォーク・アンド・ド・ムーロン(二人組)はバーゼルの出身で、現在もバーゼルに事務所を構えています。一般には、北京オリンピックの鳥の巣のようなメイン・スタジアムを設計した人物として有名でしょうか。バーゼルは地元であるため、多くの作品が残っています。工場を大胆にリフォームして現代美術館として再生した、ロンドンのテート・モダンは、彼らの代表作としてあまりにも有名ですが、世界的デビューの前には、バーゼルで多くの建物を設計しました。その中でも彼らの特徴である、ありきたりの建築材料を用いながら、全く異なる素材として見せるテクニックが最初に現れたのは、州立病院ロセッティ医薬研究所でしょう。大胆に大きな開口部と、緑色のガラスのような外観が目を引く建物です。バーセル旧市街地に建っています。この他にも、初期の代表作であるバーゼル中央駅のシグナルボックスや、まだ無名時代の集合住宅などが挙げられます。
 このように、ライン川上流にあって南北の交通の拠点であったバーゼルは、古くから宗教や文化の交流点として発展してきました。古い歴史的建物と新しい建築物が混じり合い、文化的包容力の深さを感じた旅でした。
旧市街地に立つロセッティ医薬研究所 ヘルツォーク・アンド・ド・ムーロン設計 1997年

フライブルグの大学町

シュロスベルグから大聖堂と旧市街を望む

2011/04/20

1.フライブルグの町


フライブルグは、シュロスベルクの丘とドライザム川に沿って発達した、美しい大学町です。ドイツ南西部のバーデン・ヴュルテンベルク州にあり、ライン川を挟んで西にフランス国境と面しています。ライン川に沿って電車で40分も走ると、スイスのバーゼルへ行ける近さです。ドイツの中でも最も温暖な気候で、シュバルツバルトの森に囲まれた自然豊かなロケーションです。
記録によれば、町のはじまりは12世紀頃まで遡ります。1120年に、ツェーリンガー公コンラッドとベルトルト3世によって、都市の定住と自由な市場との権利が与えられ、これが町のはじまりと考えられています。フライブルグ(Freiburg)は、その名の通り古くから自由で独立した(Frei)都市(burg)だったのです。当時は人口6000人ほどで、シュバルツバルトの森で銀採掘をして収益を得ていたようです。その後、ドナウ川の南北のルートと、シュバルツバルトを抜けてドナウ川へ抜ける東西のルートとが交わる交通の要所として、次第に発展しました。18世紀にはカトリックの司教座が置かれ、町の発展に拍車をかけました。
残念なことに、第二次大戦によって町の半分ほどが消失しましたが、それでも古い市街地(アルト・シュタット)には、中世の面影を残す建物が多く残っています。13世紀に建設が始まったゴシック様式の大聖堂をはじめ、旧市庁舎(アルテ・ラートハウス)、旧商館(ヒストリク・カーウハウス)など、多くの建物が中世に建てられています。

2.大学の歴史


町を歩いて目を引くのは、大学の建物の多さです。1457年、オーストリア大公アルブレヒト6世によって創立されたフライブルグ大学は(フライブルグは、一時期ハプスブルグの支配下にありました)、ドイツの中では、ハイデルベルグ大学などに次ぐ古い大学の一つです。校訓には、ヨハネ福音書から取った「真理は汝らを自由にする。(Die Wahrheit wird euch frei machen.) 」とあります。
長い歳月には、アカデミックな歴史と伝統が刻まれています。哲学者エトムント・フッサール、マックス・ウェーバー、マルティン・ハイデッガーなど、著名な学者が教鞭を執った事でも知られています。ハイデッガーは、後に学長まで務め、フライブルグ大学の名声を高めることに貢献しました。卒業生には、哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーや社会学者ニクラス・ルーマンがいます。
創立時には医学、法学、哲学、神学の4学部でしたが、現在は11学部を擁するドイツでも数少ない総合大学に発展しています。学生数は2万人、教職員数は9000人に達していますので、人口約20万人のフライブルグでは、実に10人に1人が大学関係者という計算です。大学が町の雇用をも生み出していると言っても、過言ではありません。事実、ドイツは歴史的に地方分権が進んでおり、古くからある公立大学のほとんどは、州立大学です。そのため学部の創立や移転など、大学の運営には州政府の意向も反映されます。



フライブルグ大学の校訓 
「真理はあなたがたを自由にする」

3.ドイツの大学

フライブルグは、ドイツの中では最も南西に位置しますが、フランス、スイス、イタリアなどを含めた西ヨーロッパの地理を眺めると、ほぼ中央に位置しているのがわかります。EU加盟以降、ドイツの各大学は垣根を越えたアカデミックな交流を目指しています。
教育レベルの交流では、有名な「エラスムス制度」が挙げられます。エラスムス制度とは、学部生がEU加盟国内の他大学に長期間滞在し、取得した単位を所属する大学の単位として認定するもので、ヨーロッパ各地で勉学したロッテルダムのエラスムスに因んでいます。エラスムス制度には、様々な特典があり、無料で語学研修を受講でき、様々なエクスカーションにも参加できます。このように、学生にとって様々な可能性と選択肢があるわけですが、逆に自立的に学習プログラムを作ることが難しい学生にとっては、単なるバケーションとなってしまう危険があります。実際、ギリシアのテッサロニキ大学で留学中に、エラスムス制度で留学している学生と接触する機会がありましたが、勉学の熱意は、ギリシアへ留学している外国人留学生と比べても、あまり高いとは言えませんでした。
研究レベルでは、国境を越えて大学間が連携を深めています。フライブルグ大学は、地理的に近いバーゼル大学、ミュールーズ大学、ストラスブール大学およびカール・スーエ工科大学と共に、緊密な連携協定を結んでいます。さらに、フライブルグ大学は、ヨーロッパ研究大学同盟(League of European Research Universities)に加盟しています。学術研究分野において質・量ともに優れていることが加盟の条件とされており、全部で21の大学が加盟し、ドイツからはハイデルベルグ大学、ミュンヘン大学とあわせて3つだけが加盟しています。
フライブルグは、その地理的影響もあって、フランスやスイスの国境を越えて教職員が通勤することが、すでに当たり前になっています。その意味では、大学に限らず、市民レベルでの人的交流がますます加速していると言えるでしょう。さらに、ドイツの人口の10%以上は外国人と言われています。学生も例外ではなく、特にアフリカや中東からの留学生は増加傾向が続いています。フライブルグ大学のように長い歴史と伝統のある大学も、国際化の中での大学あり方が問われているようです。