2011年11月28日月曜日

ハイデルベルグ城址と大学町

2011/11/24

アルト・ハイデルベルグ
 ハイデルベルグは、ハイデルベルグ城址、ネッカー川とそこにかかる古い石橋(アルテ・ブリュッケ)によって、外国人に大変人気の高い町です。ゲーテやヘルダーリンをはじめ、多くの文人たちが、ハイデルベルグを舞台にして文学作品を残しています。旧市街(アルト・シュタット)は、第二次大戦中にあまり破壊されなかったこともあり、中世の街並みが比較的残っています。(アメリカ軍の将校となったハイデルベルグ大学の卒業生が、美しい旧市街地が破壊されるのを惜しみ、爆撃を避けるよう働きかけたと言います。)
 旧市街(アルト・シュタット)はネッカー川の下流域にあって、両岸から丘が迫り、川幅が狭くなっていることから、古くから交通の要衝でした。紀元後1世紀ごろには、すでにローマの橋が架けられていたと伝えられています。


ハイデルベルグ城のテラス(Altan)から旧市街とネッカー川とを望む(左手に聖霊教会堂、川の中央に古橋(アルテ・ブリュッケ)、対岸は『哲学の道』)

ハイデルベルグ城址
 2011年7月、はじめてハイデルベルグを訪問しました。冷夏で雨がちだったこの夏にはめずらしく、温かい日差しがさしていました。ハイデルベルグ城は旧市街から100mほど登った丘の中腹にあります。
はっきりした資料は残っていませんが、ハイデルベルグ城が建てられたのは、およそ13世紀初めと言われています。現在残っている城のうち、最も古いのは東側にある塔(2011年現在、修復工事中)で、15~16世紀の建造です。しかし、主な館が建てられたのは16世紀半ばから17世紀初めにかけてのことで、主な建物としてはザールバウ(1549年頃)、オット・ハインリッヒスバウ(1556-63年)およびフリードリッヒスバウ(1601-07年)が残っています。これらの館は、ルネッサンスの導入が遅れたドイツにおいて、初期のルネサンス建築としてよく紹介されています。これらの館を手がけたのは意外にもイタリア人建築家ではなく、オット・ハインリッヒスバウはネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)の彫刻家アレクサンデル・コリン、フリードリッヒスバウはストラスブール(?)の建築家ヨハネス・ショッホです。
 オット・ハインリッヒスバウは、付柱、二連窓、ニッチ、およびニッチに置かれた彫刻などの要素で立面が構成されて、あまりに窮屈な印象を受けます。最上階には、彫刻が二体建っているので、ひょっとすると破風が二つあったのかも知れない。教科書には、フランスと北イタリアの影響を巧みに融合していると説明がありますが、いろんな要素を詰め込みすぎて、ややアンバランスな印象を受けました。



ハイデルベルグ城、オット・ハンリッヒスバウ正面(1556-63年、彫刻家アレクサンデル・コリンの設計?)

 次にフリードリッヒスバウは、ハインリッヒスバウと同じ中庭に面して建てられたこともあって、基本的にハインリッヒスバウの立面を模倣しています。付柱、二連窓、ニッチなどの要素とその配置はそのままです。しかしドーマー窓の破風を二つ配置し、これらを近接して配置することによって、中世的な建築要素を持ち込み、立面の緊張感が増しています。1階から3階までのプロポーションも、上階にいくほど高さを抑えることで(実際には、高さを押さえるのではなく、エンタブラチュア、付柱、窓周りの装飾を豊かにすることによって、二連窓を小さく見せていると思いますが)、より視覚的にバランスの取れた、それでいて緊張感のある立面に発展しています。このあたりに、ドイツ・ルネッサンス建築の独自性があるのでしょうか。



ハイデルベルグ城、フリードリッヒスバウ正面(1601-07年、ヨハネス・ショッホ設計)

ハイデルベルグ大学
 ハイデルベルグを有名たらしめているのは、何もハイデルベルグ城址ばかりではありません。プファルツ選帝侯ループレヒト1世によって1386年に創立されたハイデルベルグ大学は、現在のドイツ連邦にある大学としては最古の大学としてよく知られています。1986年には創立600年を祝ったばかりです。ハイデルベルグ大学は、現在12の学部を持つ総合大学で、神学部、哲学部などの文系学部が旧市街に、医学部、生物学などの理系学部が新市街にあります。
 旧市街の一角には大学(ウニヴァーシテート)広場(プラーツ)があり、大学の旧館が建っています。その二階(日本で言う三階)には、1886年に大学創立500年を記念して建てられた大講堂(Alte Aura)が入っています。建築家はヨセフ・ドゥルムで、新古典様式の内装を施し、画家のフェルディナンド・ケラーが正面の背景画と天井画を描きました。現在では、大学の式典、退官記念講演、卒業式などの際に使われているそうです。どっしりした新古典主義の内装も印象的でしたが、何より創立500年を記念して建てられた講堂が19世紀終わりの建造とは、さすがに驚きました。東京大学の安田講堂が、内田祥三(東京帝国大学営繕部部長、後に東京帝国大学総長も務めた)の設計によって建てられたのが、大正十年(1921年)のことですから。



創立500年を記念した大講堂(1886年、ヨセフ・ドゥルム設計)

 この大学旧館には、大学博物館もあってハイデルベルグ大学の歴史を簡単に勉強することが出来ます。これと合わせてちょっと面白いのが、学生牢です。学生牢は、大学旧館のすぐ裏手にあり、観光客に公開されています。ドイツの大学は、古くから自治権を持ち、秩序違反を犯した学生は学内で罰することが出来ました。(1886年以降は、大学の裁判権は懲戒処分にだけ限定されています。)拘禁期間は2日から4週間だったそうです。パンフレットによると、牢での生活は学生たちにはかえって快適と思われたと言います。実際、拘禁期間中も授業に参加することはできたのですから。学生たちが牢の壁に書き残した「落書き」は、牢での生活を伝える珍しい資料として保存されています。



学生牢の落書き

2011年11月19日土曜日

シュバルツバルトの森を歩く

2011/11/03
シュバルツバルトの森を歩く
 ドイツの秋は早い。10月半ばから木の葉が色づきはじめ、今は黄葉真っ盛りである。ゲーテ・インスティツュートでは、毎週のようにエクスカーションが組まれてる。その中にシュバルツバルトの森へのトレッキング・ツアー(wandern)を見つけ、早速参加してみた。
 フライブルグの中央駅から電車とバスを乗り継ぎ、小一時間ほどで、近場の避暑地として知られるティティ湖(Titisee)へ出た。黄葉した木々が映り込むティティ湖を眺めながら、さらにバスに乗って30分ほど走ると、レンツキルヘ(Lenzkirch)に着いた。このあたりは、日帰りのトレッキングやハイキングの拠点になっているようで、案内所には様々なパンフレットが置かれている。ここを拠点にして、一行は出発した。
 ドイツ人はトレッキング好きだとは聞いていたが、とにかく一日で15キロから20キロ、ひたすら山道(Wanderweg)を歩く。今回は小川に沿って数キロ歩いた後、やや険しい山道を登り、なだらかな道を2時間ほど行くと、ランチ休憩となった。
 好天に恵まれて、多くの家族連れやグループとすれ違った。意外だったのは、20代、30代の若い人が多いこと。普段は学業やアルバイトで忙しくしているはずだが、休日は工夫して楽しんでいる様子。小川の横で休憩していると、次から次にグループが通り過ぎていった。土の色でやや濁った小川の流れを、しばらく眺めていた。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』で、主人公が釣りに出かけた小川も、こんなものかと思った。舞台は確かシュワーベン州の田舎町。ここからもそう遠くない。
 ツアーの主催者は学生連盟であったこともあり、若い学生が多かった。ゲーテの語学学校からの参加者は意外に少なく、数名程度である。参加者の中でも、変わった顔ぶれだったのは、スペイン人でフライブルグ大学で半期授業を持っているという天文物理学者。何度か来日経験があるということで、「はじめまして」と日本語で声をかけられた。他には、情報工学のドイツの大学院生。英語が堪能で、アメリカに留学しロボット開発を夢見ていた。また、ドイツ文学を学んでいるイスラエル人留学生など。
 休憩からさらに5時間歩き、陽が傾いた頃、レンツキルヘ(Lenzkirch)に戻った。そこからバス・電車で乗り継いで、フライブルグへ戻った頃にはすでに真っ暗。そういえば10月末からは冬時間に切り替わったのだった。

2011年11月12日土曜日

大聖堂と運河の町 ウルム

2011/10/30

 6月の初め、バイエルン地方のウルムという町を尋ねました。まだひんやりする早朝に、フライブルグの中央駅から電車に乗り込むと、連休を利用して旅行に出かけるドイツ人ですでに混雑していました。ウルムまでは、ミュンヘンからは特急で一時間半の距離ですが、私の住むフライブルグからは、シュバルツバルトの森を回り込むことになります。カールスルーエまでライン川に沿って北に走り、そこからシュツットガルトへ向けて東へ走ります。シュツットガルトを抜けると、すぐに田舎の景色が見えてきました。

 緩やかに起伏する畑と、時々現れる落葉樹の林は、ちょうどパリ近郊の田舎を思わせます。車窓から見える雑木林は、初夏の陽気を浴びてまぶしいほどです。しばらく見とれていると、ウルム駅に到着のアナウンスがありました。ほぼ時を同じくして、林の上に遙かにそびえる大聖堂の尖塔が目に飛び込んできました。

 ウルムは、地理的に言えばバーデン・ウェルテンベルグ州とバイエルン州に挟まれた小さな町で、十五世紀から十六世紀にかけてドナウ川の水運で栄えました。当時の人口は一万二千人程度と言われています。ドイツでは十字軍以降、封建社会が安定し、中世都市の成立と共に市民が勢力を持ち始め、ゴシック様式での大聖堂の建設が始まりました。ゴシックの建設熱は各地に及び、司教座の置かれていない小さな教区教会でも計画されるようになります。ウルムは、そうした教区教会に建てられた大聖堂の代表例です。

 大聖堂建設には長い年月を要しました。1377年に起工し、度重なる設計者の変更、工事の中断を経て、最後に十五世紀の図面に基づいて西正面が完成したのは1890年と言いますから、実に500年近くも(!)建設活動が続いたことになります。歌人で精神科の医者であった斎藤茂吉が、ミュンヘンに留学し、ドナウ河に沿って旅をしたのが大正十三年(1924年)頃です。茂吉は、ウルムで汽車を降り、その時の子細を『ドナウ源流行』※に詳しく記しています。彼が目にした「大伽藍」は、わずか34年前に完成したばかりだったのです!ちなみに、ウルム大聖堂が完成する一年前には、パリにエッフェル塔(完成当時の高さ313m)が建てられました。エッフェル塔の方が、ウルムの大聖堂より先に完成していたことになります。


 
図1 ウルム大聖堂 西正面 高さ161mはゴシックの大聖堂で最高
 ドイツでは、アミアンを模倣したケルン大聖堂が内陣の工事だけで中断したり、ストラスブール大聖堂の西正面の双塔が一つしか作られなかったため、西正面をひとつだけの塔とする単塔形式が主流になったとされています。そのため双塔形式のフランス・ゴシック建築と比べると、ドイツ・ゴシック大聖堂の西正面は、より高さが強調され、立面としてのバランスは崩れています。大聖堂前の広場に建ち、西正面を見上げると、まるでエンパイヤー・ステートビルのような高層建築の前にいるような感覚を覚えます。ウルムの大聖堂は、高さ161mの塔を備え、ゴシック様式の大聖堂としては最高の高さを誇ります。茂吉が、塔の上から「下の方を覗くと町を歩く人馬がすでに蟻程になって見え」、「眩暈をおぼえた」のも無理はありません。春陽に輝くドナウ川を眺めながら、茂吉は、シュバルツバルトの森からドイツを東西に横切り、オーストリア、バルカン諸国を経て黒海に至る大河に思いを馳せたのでした。また、ドナウ河が国境だった東ローマ帝国と、その後の長い歴史に思いを馳せたのでした。

 大聖堂の内部は、高さを求めすぎたためか、やや間が抜けた印象を受けます。おそらくアーケイドと高窓の間が壁になって、何の装飾もないところが、そのような印象にさせるのかもしれません。ウルムより後に建てられた、ウィーンの大聖堂のような広間式と違って、高窓から十分な採光ができるので、内部は比較的明るい印象です。内陣はきわめて簡素な作りで、これもドイツ・ゴシック建築の特徴とされています。


図2 ウルム大聖堂 内観
 大聖堂を訪ねた後、私も川へ向かって歩いて行きました。ウルムは、ドナウ川とそれに流れ込むいくつかの支流が出会う場所です。町の外れには小さな運河があり、昔の漁師の建物が今も建っています。ちょうどアルザス地方にあるような木造の建物で、川に向かって持ち送りで壁が幾重にも突き出ているのが印象的です。茂吉が尋ねた頃は閑散としていたようですが、今はすっかり観光地化されています。元漁師の家も、ホテルに改装されたものもありました。川の近くに来て旅情を感じるのは、やはり日本人だからでしょうか。しばらくの間、飽きもせず川面を眺めていました。


図3 運河に建つ漁師の家(現在はホテル)
 最後に、ウルムの一風変わった名所として、パン文化博物館を紹介しておきます。古い建物を改装した博物館で、大聖堂のすぐそばにあります。3階建ての館内には、世界のパンの歴史が紹介されています。古代エジプトのパン、ユダヤ人のパン、19世紀に書かれた最初の『パンに関する論文』、工場で大量生産されるようになったパンの製造工程。さらにはナチ・ドイツ時代の食料制限を呼びかけるポスターに登場する「パン」(!)。パンを主食とする世界では、労働に対する対価がパン(=食料)であったことが良く分かります。最後に、人口爆発の現代世界に置いて、世界的な食料危機が迫っていることを警告して、展示は終わります。パンを通して、様々なことが見えてくる、興味深い展示でした。

※ 茂吉の『ドナウ源流行』には、当時のウルムの町が詳しく記されています。