短い週末休みを利用して、ライン川流域に残るドイツ・ロマネスク建築を見学する旅に出た。ドイツ西部を南から北へ流れるライン川の中流域は、11世紀から13世紀にかけて巨大なロマネスクの大聖堂が建てられたことで知られる。今回は、ライン川流域の三大聖堂として名高いシュパイヤー、ウォルムス、マインツの大聖堂を訪ねた。
西ローマ帝国が滅亡してから、数百年ものあいだ停滞状態が続いたヨーロッパでは、修道院などの一部の例外を除き、めぼしい建築文化が育たなかった。11世紀になって都市が発達しはじめ、サンティアゴ・コンポステーラの巡礼活動などによって、地中海の石造文化と北方の木造文化が混ざり合った結果、ようやく新しい教会堂が建ち始めた。これがロマネスク建築の始まりである。したがって、ロマネスクと言っても古代ローマの建築とは何ら関係はなく、西ヨーロッパの各地で建てられたローカルな建築様式の総称と理解しておけばよい。しかしロマネスク建築は、ヨーロッパの建築がイスラム建築から受けた直接的影響を理解する意味においても、また後のゴシック建築を準備した意味においても、重要な建築様式である。
初期ロマネスク建築は、壁や柱だけを石造とし、天井や小屋組を木造としたため、落雷による火災が後を絶たなかった。そのため11世紀半ばあたりから石造のヴォールト天井を架けはじめたが、施工時に型枠が必要で、しかも石材の形が複雑であったため、建設は困難を極めた。ドイツでは、早くから交差ヴォールト天井(矩形グリッドの天井を平面で垂直に交差する2つのヴォールトで支える構造)が採用されたが、トンネル型ヴォールトやペンデンティブ・ドームなどに比べて建設が難しく、しばしば崩壊事故を起こした。特に長方形グリッドの天井に交差ヴォールト天井を架ける場合、長辺アーチと短辺アーチの頂部が同じ高さに揃わない。また一辺のアーチを半円形にしても対角線上のアーチは背の低い楕円形となり、構造的に安定しない。そのため身廊や側廊の平面区画をなるだけ正方形に整えるなど、幾何学的に明快にする努力がなされた。
ライン川沿いのロマネスクの大聖堂では、二重内陣式、多塔形式が基本で、軒蛇腹やロンバルディア帯と呼ばれる小アーチの軒装飾が使われた。また、軒ギャラリーを巡らせたことも特徴である。二重内陣式とは、通常は教会堂の東にしかない内陣が、西側にもある形式のことで、とくにドイツでこの形式が多いのは、神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ皇帝)が、西玄関二階の内陣に皇帝席を用意させたためである。
シュパイヤー大聖堂
ハイデルベルグに近いシュパイヤーには、ドイツ・ロマネスク建築の中でも初期の大作として知られる大聖堂が建っている。シュパイヤー大聖堂は、全長130m、身廊は約13.5×70mもあり、ロマネスク建築の中ではフランスのクリュニュー第3教会についで大きい。ライン川上流域に建てられた大聖堂は、南はバーゼルから北はマインツまで、ライン川で採れるピンク色の砂岩を使っている。シュパイヤーも、やはりピンクの砂岩が印象的であった。外から眺めると、東と西に建てられた高い階段塔と、交差部と西正面の八角形の塔が目を引く。軒の下には、長い軒ギャラリーが作られ、これはその後ライン川沿岸の教会堂で模倣されることになった。
クリプト(地下墓室)や側廊は、建設当初から交差ヴォールトが用いられ、特にクリプトは半円形の放射状ではなく、長方形グリッドの区画になっている。クリプトの交差ヴォールトを支えるアーチと、側廊の横断アーチには、ゼブラ模様(紅白の縞模様)が人目を引く。ゼブラ模様は、ロマネスク時代にイスラム建築から導入されたと言われる。ゼブラ模様と言えば、すぐにスペインのコルドバの大モスク(785-1101年)が思い出される。
身廊だけは、もともと木造であったらしい。現在の交差ヴォールト天井は、1100年の増築である。その際、重い石造のヴォールトを支えるため、ピアには一本おきに細い半円柱の付け柱と、太い半円柱の付け柱が交互に付け加えられた。すなわち、太いピアはアーチの端部を支え、細いピアはアーチの頂部を支える格好になっている。この強弱のピアは、単に構造的補強にとどまらず、身廊の垂直性を強調し、リズミカルな視覚的効果を与えたことから、マインツやウォルムスでも模倣され、後にヨーロッパ各地に伝わった。この強弱の付け柱は、ゴシック様式の大聖堂に受け継がれた。
ヴォルムス大聖堂
シュパイヤーからさらに30分ほど車を走らせ、ライン川を再び越えるとヴォルムスの町につく。ヴォルムスの大聖堂は、シュパイヤー、マインツと並ぶ三大聖堂の一つである。ヴォルムス大聖堂といえば、マルティン・ルターが1521年、ヴォルムス帝国議会でローマ教会から破門を受けたところである。ライン川の対岸からもはっきり見えるヴォルムスの大聖堂は、三大聖堂の中では一番新しく、また規模も小さいが、ノルマン式の正方形区画を採用し、最も完成したドイツ・ロマネスク建築と言われる。
交差部と西内陣に八角塔、東西内陣の両側に円形の階段塔を立て、ロンバルディア帯と小アーケイドで飾っている。西側にも内陣があるため、東端にも西端にも入り口はなく、出入口は北側廊と南側廊にある。
11世紀の基礎の上に建てられたロマネスクの大聖堂は、彫刻などの装飾を多用せず、マッシブな躯体をそのまま使用し、簡素ながら力強い印象を与える。ヴォルムスでは、13世紀半ばまで建造が続いたが、この頃フランスではすでにゴシック建築がさかんに建てられていた。アミアン大聖堂を模したといわれるケルン大聖堂の建設が1248年に始まったことを考えると、いかにドイツで長くロマネスク建築が愛好されていたか伺えよう。
建築史の講義では、ロマネスク建築のあとにゴシック建築が登場するが、これはあくまで便宜的な説明であって、実際にはわずか1世紀ほどの時間をおいて、二つの様式建築が同時に建てられていた。もちろん、ゴシック建築はその後ルネサンス建築の影響を受けるまで、ヨーロッパの国際的な様式建築となったわけで、その意味で、ロマネスクはあくまで地方色の強い様式と考えれば良いのだろう。
マインツ大聖堂
ライン川のロマネスク建築を巡る最後の訪問地は、マインツの大聖堂である。マインツは、ライン川とマインツ川が交わる交通の要所で、活版印刷技術を発明したグーテンベルグの生まれ故郷としても知られる。マインツの大聖堂も、ライン川沿いのロマネスク建築の様式にならい、二重内陣式、多塔形式で、外壁はロンバルディア帯と軒ギャラリーで飾られている。
筆者が訪問した際には、ちょうど日曜日のミサが行われていた。数百人の信者が一斉に立ち上がり、パイプオルガンの遠大な音色に合わせて賛美歌が歌われると、高い石造天井いっぱいに長く反響し、巨大な大聖堂が礼拝行事の舞台装置として機能する様が実感できた。
西ローマ帝国が滅亡してから、数百年ものあいだ停滞状態が続いたヨーロッパでは、修道院などの一部の例外を除き、めぼしい建築文化が育たなかった。11世紀になって都市が発達しはじめ、サンティアゴ・コンポステーラの巡礼活動などによって、地中海の石造文化と北方の木造文化が混ざり合った結果、ようやく新しい教会堂が建ち始めた。これがロマネスク建築の始まりである。したがって、ロマネスクと言っても古代ローマの建築とは何ら関係はなく、西ヨーロッパの各地で建てられたローカルな建築様式の総称と理解しておけばよい。しかしロマネスク建築は、ヨーロッパの建築がイスラム建築から受けた直接的影響を理解する意味においても、また後のゴシック建築を準備した意味においても、重要な建築様式である。
初期ロマネスク建築は、壁や柱だけを石造とし、天井や小屋組を木造としたため、落雷による火災が後を絶たなかった。そのため11世紀半ばあたりから石造のヴォールト天井を架けはじめたが、施工時に型枠が必要で、しかも石材の形が複雑であったため、建設は困難を極めた。ドイツでは、早くから交差ヴォールト天井(矩形グリッドの天井を平面で垂直に交差する2つのヴォールトで支える構造)が採用されたが、トンネル型ヴォールトやペンデンティブ・ドームなどに比べて建設が難しく、しばしば崩壊事故を起こした。特に長方形グリッドの天井に交差ヴォールト天井を架ける場合、長辺アーチと短辺アーチの頂部が同じ高さに揃わない。また一辺のアーチを半円形にしても対角線上のアーチは背の低い楕円形となり、構造的に安定しない。そのため身廊や側廊の平面区画をなるだけ正方形に整えるなど、幾何学的に明快にする努力がなされた。
ライン川沿いのロマネスクの大聖堂では、二重内陣式、多塔形式が基本で、軒蛇腹やロンバルディア帯と呼ばれる小アーチの軒装飾が使われた。また、軒ギャラリーを巡らせたことも特徴である。二重内陣式とは、通常は教会堂の東にしかない内陣が、西側にもある形式のことで、とくにドイツでこの形式が多いのは、神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ皇帝)が、西玄関二階の内陣に皇帝席を用意させたためである。
シュパイヤー大聖堂、外観(1030~1106年頃) |
ハイデルベルグに近いシュパイヤーには、ドイツ・ロマネスク建築の中でも初期の大作として知られる大聖堂が建っている。シュパイヤー大聖堂は、全長130m、身廊は約13.5×70mもあり、ロマネスク建築の中ではフランスのクリュニュー第3教会についで大きい。ライン川上流域に建てられた大聖堂は、南はバーゼルから北はマインツまで、ライン川で採れるピンク色の砂岩を使っている。シュパイヤーも、やはりピンクの砂岩が印象的であった。外から眺めると、東と西に建てられた高い階段塔と、交差部と西正面の八角形の塔が目を引く。軒の下には、長い軒ギャラリーが作られ、これはその後ライン川沿岸の教会堂で模倣されることになった。
クリプト(地下墓室)や側廊は、建設当初から交差ヴォールトが用いられ、特にクリプトは半円形の放射状ではなく、長方形グリッドの区画になっている。クリプトの交差ヴォールトを支えるアーチと、側廊の横断アーチには、ゼブラ模様(紅白の縞模様)が人目を引く。ゼブラ模様は、ロマネスク時代にイスラム建築から導入されたと言われる。ゼブラ模様と言えば、すぐにスペインのコルドバの大モスク(785-1101年)が思い出される。
身廊だけは、もともと木造であったらしい。現在の交差ヴォールト天井は、1100年の増築である。その際、重い石造のヴォールトを支えるため、ピアには一本おきに細い半円柱の付け柱と、太い半円柱の付け柱が交互に付け加えられた。すなわち、太いピアはアーチの端部を支え、細いピアはアーチの頂部を支える格好になっている。この強弱のピアは、単に構造的補強にとどまらず、身廊の垂直性を強調し、リズミカルな視覚的効果を与えたことから、マインツやウォルムスでも模倣され、後にヨーロッパ各地に伝わった。この強弱の付け柱は、ゴシック様式の大聖堂に受け継がれた。
シュパイヤー大聖堂、身廊(1100年頃) |
シュパイヤーからさらに30分ほど車を走らせ、ライン川を再び越えるとヴォルムスの町につく。ヴォルムスの大聖堂は、シュパイヤー、マインツと並ぶ三大聖堂の一つである。ヴォルムス大聖堂といえば、マルティン・ルターが1521年、ヴォルムス帝国議会でローマ教会から破門を受けたところである。ライン川の対岸からもはっきり見えるヴォルムスの大聖堂は、三大聖堂の中では一番新しく、また規模も小さいが、ノルマン式の正方形区画を採用し、最も完成したドイツ・ロマネスク建築と言われる。
ヴォルムス大聖堂、外観(1171~1240年頃) |
交差部と西内陣に八角塔、東西内陣の両側に円形の階段塔を立て、ロンバルディア帯と小アーケイドで飾っている。西側にも内陣があるため、東端にも西端にも入り口はなく、出入口は北側廊と南側廊にある。
ヴォルムス大聖堂、身廊(1171~1240年頃) |
11世紀の基礎の上に建てられたロマネスクの大聖堂は、彫刻などの装飾を多用せず、マッシブな躯体をそのまま使用し、簡素ながら力強い印象を与える。ヴォルムスでは、13世紀半ばまで建造が続いたが、この頃フランスではすでにゴシック建築がさかんに建てられていた。アミアン大聖堂を模したといわれるケルン大聖堂の建設が1248年に始まったことを考えると、いかにドイツで長くロマネスク建築が愛好されていたか伺えよう。
建築史の講義では、ロマネスク建築のあとにゴシック建築が登場するが、これはあくまで便宜的な説明であって、実際にはわずか1世紀ほどの時間をおいて、二つの様式建築が同時に建てられていた。もちろん、ゴシック建築はその後ルネサンス建築の影響を受けるまで、ヨーロッパの国際的な様式建築となったわけで、その意味で、ロマネスクはあくまで地方色の強い様式と考えれば良いのだろう。
マインツ大聖堂
ライン川のロマネスク建築を巡る最後の訪問地は、マインツの大聖堂である。マインツは、ライン川とマインツ川が交わる交通の要所で、活版印刷技術を発明したグーテンベルグの生まれ故郷としても知られる。マインツの大聖堂も、ライン川沿いのロマネスク建築の様式にならい、二重内陣式、多塔形式で、外壁はロンバルディア帯と軒ギャラリーで飾られている。
マインツ大聖堂、東面(1181年~) |