5世紀終わりごろに西ローマ帝国が滅亡すると、混乱の中で西ヨーロッパの建築活動はすっかり停滞してしまった。この停滞状態は、ロマネスクの大聖堂の建設が始まる10世紀後半ごろまで長く続いた。したがって、西ヨーロッパにおける6世紀~10世紀までの建物は、11世紀以降のロマネスク建築と区別して、プレロマネスクと呼ばれる。しかし、プレロマネスクの建物と言えば、西ローマ帝国の遺産であるキリスト教徒が建てた修道院の建物等であり、そのほとんどは現存していない。したがって、プレロマネスクの建築は、明確な建築様式もなく、また規模も小さい。その中でベルギー国境に近いアーヘンの宮廷礼拝堂は、現存する特異なプレロマネスクとして知られている。なぜならその身廊は、八角形平面にドーム状のヴォールトを架けるという、この時期や地域には類例のない特殊な礼拝堂だからである。
アーヘンの宮廷礼拝堂は、シャルルマーニュ(カール大帝)の宮廷付属礼拝堂として805年に建てられた。礼拝堂は宮殿の大広間の南に建っており、大広間(1350年に市庁舎Rathausに改築)と礼拝堂とは、二階建ての大廊下で繋がっていたという。また礼拝堂の西には二階建てのアトリウムがあり、アトリウムと大広間もまた、廊下で繋がれていた。これら建設当初の躯体は、八角形の身廊を除き、現存しない。
アーヘン、宮廷礼拝堂 (中央の八角形の身廊部の軒よりも下の部分のみが最初の建造(805年)で、軒の盲アーケイドと三角形の破風は13世紀の、ドームは17世紀(1669年)の増築。左手の内陣は15世紀(1414年)にゴシック様式で増築され、右手奥の塔は19世紀(1884年)に増築されたもの。)
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アーヘン、八角形身廊のドーム (天井モザイクは二十四長老が復活したイエスを囲む構図で、堂内のモザイクや大理石化粧材と共に、20世紀の初めに復元されたもの。)
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中央の身廊を中心に、十六角形の外壁が巡り、その間を交差ヴォールトを架けて側廊としている。さらにその上に二階廊を巡らし、中心から外壁に向かって放射状にトンネル・ヴォールトを架けた。アプスはゴシック様式に改築されたため現存しないが、当初は身廊と同じく二階建てで、長方形平面の突出するアプスがあった。身廊のドームは石造で、直径は約14 mあるのに対し、天井高さは約31 mもあり、極端に垂直性が高い。
この礼拝堂の特異な造形は、二階周廊と石造ドームなどの類似性から、ラヴェンナのサン・ヴィッターレが原型とされている。サン・ヴィッターレはユスティアヌス帝の時代(6世紀半ば)に建てられたビザンツ建築の傑作で、八角形平面の身廊と二階建て側廊を持つ。しかし、八角形の各辺から側廊に向かって半円形のニッチを突出させることで、身廊と側廊がより流動的な空間となっており(逆に側廊をニッチの裏側で犠牲にしているが)、さらにニッチ上部の半ドームが中央の石造ドームを支える格好になっている(この平面形式は、コンスタンティノポリスの聖セルギオス・聖バッコスの強い影響を受けている。)このような空間的流動性は、アーヘンの礼拝堂には見られない。むしろ、ここでは身廊と側廊を隔てる大きなピアと大理石の柱が、重厚で垂直性の高い空間を作り出している。この特徴は、後のロマネスクの大聖堂を連想させるだろう。また、サン・ヴィッターレの中央ドームは、放射状に伸びるリブで目地を切られた十六枚のセルで出来ているのに対し、アーヘンの礼拝堂の中央ドームは、単純な八枚のセルでドームを構成し、モザイクで天井画が描かれている。
アーヘン、礼拝堂 八角形身廊から二階側廊を見上げる
重厚で垂直性の強い空間は、ロマネスク的な記念性を現している
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もっとも、ゼブラ模様アーチや色大理石の円柱、豊かに装飾された床や天井は(現在のそれは20世紀初頭の復元だが)、一般の大聖堂と異なり、皇帝が住んだ宮廷の礼拝堂としての特徴を顕著に示している。これは西ローマ帝国の復興を目指したカール大帝の意図によると言われる。また二階側廊の西側には、大理石造の皇帝席(Kaisersthul)がある。これは皇帝=司祭というカール大帝の立場を、建築的に表現したもので、おそらく盛期ロマネスク大聖堂の二重内陣式の始まりではないだろうか。さらに、西玄関の両翼には階段室を設けたことで、礼拝堂の西正面は重厚な構えになった(ちょうど中世ヨーロッパの門のような)ことも、ロマネスクへの直接的影響として理解される。このようにアーヘンの礼拝堂は、西ローマ帝国ないしはビザンツ帝国からヨーロッパ中世にかけての、いわば過渡期における記念的建築物として、なお興味の尽きない建築である。