2011年10月30日日曜日

ストラスブール

2011/05/29

ストラスブール
 ストラスブールは、フライブルグから電車でわずか一時間ほどの距離です。普段の週末を利用して、訪問できるほどの近さです。オッフェンブルグでストラスブール行きのローカル線に乗り換えると、車内アナウンスもドイツ語とフランス語が同時に流れるようになります。ライン川を越えると、すぐにストラスブール中央駅です。
 ストラスブールの街は、ライン川の支流であるイル川の中洲に発達した街です。中州の大きさは東西1.5km、南北1kmほどの大きさです。西端には、ライン川の水量を制御する古い水門があり、その付近には16世紀や17世紀の古い民家が残っています。この地域は、プチ・フランスと呼ばれ、観光客には大変人気のある地域です。旧市街地は、「ストラスブールのグラン・ディル」として1988年にユネスコの世界遺産に登録されました。

ストラスブールの歴史
 ストラスブール(Strasburg)はその名の通り、ライン川による南北の物流と、東西の主要幹線道路とが交差する交通の要所にあって、古くから開けた街でした。ローマ帝国がゲルマニアとの国境をライン川に持っていたときには、ローマ領の前衛都市でありました。そのため古いローマの街道に沿って、浴場や墓などの遺跡が見つかっています。フランス風ルネサンス様式で建てられたパレ・ロアンの地下は、現在考古学博物館として使われていますが、その展示内容はフランス国内でも有数のコレクションです。
図 1 現代的に改装されたストラスブール中央駅
 ストラスブールは、かなり複雑な歴史を持っています。古くからカトリックの司教座が置かれ、毛織物業で主に発達しました。1523年には、宗教改革の影響を受けて早くもプロテスタントを受け入れ、カトリックとプロテスタントの両方の教会が共存するようになります。1697年に、リスビックの和平によりフランス王国の領域に入り、ドイツ語名のシュトラースブルクはフランス語風のストラスブールと呼ばれるようになります。普仏戦争でプロイセンが勝利すると、アルザス・ロレーヌ地方はドイツ帝国領に復帰します。さらに、第一次世界大戦でフランスが勝利すると、1919年には再びフランス領となります。1940年に再びドイツ領となりましたが、第二次大戦を経て、1944年に再びフランスに復帰したのでした。
 このように、ドイツとフランスの国境に位置するストラスブールは、ヨーロッパの歴史を象徴する都市といえるでしょう。その歴史に因んで、ヨーロッパ諸国連合(EU)の主要な国際機関が置かれました。街を歩けばフランス語が聞こえてきますが、市民のほとんどはドイツ語も話せるバイリンガルです。交通の要所であったストラスブールには、多くの文化人が滞在しました。活版印刷を発明したグーテンベルグや、カルヴァン、ゲーテ、モーツァルトなど、日本人にもなじみ深い人々の名前が歴史に刻まれています。
ノートル・ダム大聖堂
 その中央にそびえるのが、中世の歴史を象徴する大聖堂です。高さ142mという尖塔は、ハンブルグの聖ニコライ大聖堂が完成するまで、教会堂で最も高かったと言います。
図 2 ストラスブール大聖堂
  旧市街地の狭い路地を抜け、大聖堂の正面にたどり着くと、巨大な正面が目に飛び込んできます。そのマッシブな存在感は、大聖堂広場全体に行き渡っています。1015年にロマネスク様式で建設されましたが、1225年にシャルトルの石工職人がストラスブールに到着し、ゴシック様式として建設が始まりました。西側面の建設が始まったのは1270年で、地上から66mの高さにあるテラスまでが建設されました。その後、二つの塔の建設が計画されましたが、実際には北側の一つの塔だけが建設されました。建設活動は、ロマネスク様式を含めると、1176年から1439年と、実に250年近くの年月がかかっています。これはディディマのアポロン神殿の建設活動に匹敵する長さです。
 西正面の細い垂直の付柱は、一見無作為に見えますが、一説によれば単純な八角形を展開して作図したのもだそうです。柱の隙間には、数多くの彫刻が載せられ、その数は2000を越えると言います。大聖堂のファサードは、ゴシック建築の建設活動熱をよく象徴しているといえるでしょう。
図 3 聖トーマス教会
聖トーマス教会とオルガン
 大聖堂広場からやや南へ下ったところにある聖トーマス教会は、大聖堂とは対照的に質素で控えめな建物です。
 ベネディクト派のアセンブリー・ホール(集会所)として建てられ、宗教改革時にはルター派の教会堂となりました。東側のアプスに向かって一直線に視線を集中させるのがカトリックの大聖堂ですが、聖トーマス教会では、交差部の真下に説教段があり、そこに向かって座席が並べれ、視線が集まるようになっています。柱はリブがつけられていて、その部分だけゴシック様式の影響が見られますが、窓は小さく、広い壁面にはほとんど装飾がありません。アプスには、祭壇の代わりに、ナポレオン時代の英雄の彫刻が置かれています。
 さて、この聖トーマス教会は、バロック・オルガンの有名な職人、ゴットフリート・ジルバーマンのパイプオルガンが保存されています。18世紀にはモーツァルトがこのオルガンで演奏し、さらに、アルベルト・シュバイツァーが頻繁に演奏しました。1905年にシュバイツアーが開いたバッハ演奏会は大変好評で、それ以降、毎年のように演奏会が行われるようになりました。天才オルガニストとして将来を約束されていたシュバイツアーは、30歳になってからは人々のために生きるという自らの人生哲学に従い、周囲の反対を押し切って、一から医学の道に進んだのでした。アフリカでの医療と伝道の資金を稼ぐために、時折ストラスブールへ帰って演奏会を開きましたが、それもこの聖トーマス教会だったのです。
 私が訪問した際には、偶然にもオルガニストによる演奏会があり、生でパイプオルガンの音色を聴く機会を得ました。ドイツのカール スルーエ出身という若いオルガニストは、最初は小さなオルガンでリストの難曲を演奏した後、パイプオルガンでビバルディやバッハの曲を演奏してくれました。他の大聖堂で聞くパイプオルガンと違って、やや素朴な音色が印象に残りました。バッハの近代的な演奏法を批判し、オルガン演奏法を改良したシュバイツアーに思いをはせたことでした。


図 4 シュバイツアーとオルガン