2011年10月30日日曜日

フランス・ゴシック建築(その1)

2011/07/15
イル・ド・フランス=フランス・ゴシック建築を巡る旅

 パリとその近郊は、イル・ド・フランス(フランスの島、の意)と呼ばれる地域です。見渡す限り田園風景が広がり、豊かな自然に恵まれています。7月初め、この一帯を見学する旅をしました。目的は、この地域ではじまった、古いゴシック建築を見学するためです。12世紀に始まったゴシック建築は、瞬く間にパリ近郊で広がり、その後にはドイツ、オーストリア、イタリア、スペインなど、ヨーロッパ各国に広まりました。ロマネスク建築が西ヨーロッパにおける多様な地方様式であったのに対して、ゴシック建築はその普及の過程からして、明確にインターナショナルな様式でした。ヨーロッパの建築史を理解する上で、中世のゴシック建築を外すことは出来ません。15世紀末、フランス軍がイタリア半島に進軍し、ルネサンス建築と出会うまでは、ゴシック建築こそが北ヨーロッパの主要な建築様式だったのです。

1.ゴシック建築の技術
 ロマネスク建築のヴォールトにおいては、リブは稜線を明確にするために作られたのに対し、ゴシック建築のヴォールトにおいては天井の基準線として作られています。むろん、リブはあくまでヴォールトを作るための基準線であり、リブが天井を支えているわけではありません。多数の小さな石板を並べたヴォールト天井は、それだけでは安定せず、小割石を入れた石灰コンクリートを裏打ちして固め、荷重によって天井面を安定させています。そのため大きなヴォールト天井では、薄いところでも厚さ数十センチ、隅部では厚さ3~4mにも及ぶのが普通です。
 ロマネスクでは半円アーチが主流でした。スパンの異なる半円は、アーチの高さをそろえることが出来ません。しかし、尖頭アーチは、同じスパンに対しても様々な高さのアーチを作ることができ、逆に異なるスパンに対しても同じ高さのアーチを作ることが出来ます。しかも、尖頭アーチは半円アーチよりもスラスト(水平方向への推力)が小さく、構造的に安定しているというメリットがありました。サン・ドニ修道院付属聖堂(2章参照)に見られるように、台形や多角形の平面に対してヴォールトを架けるには、それぞれの頂点から平面の重心の上方に決めた交差点に向かって尖頭アーチを作図すれば、リブが通る基準線が決まります。この基準線に囲まれた部分をヴォールト天井にするという発見がゴシック建築の始まりです。
 また、ロマネスク建築から受け継いだ正方形ユニットと強弱の柱配置に基づく構成では、身廊の柱間二つ分が一つのユニットとなります。このとき中央の柱の間には、上昇する線の納まりとして横断リブが意匠上必要になります。この結果、正方形ユニットの中は、横断リブと交差リブによって六つに分割されることから、六分ヴォールトと呼ばれます。正方形ユニットの間には、横断リブを支えるやや小さな柱が挿入されるため、身廊の柱は、大小の柱が交互に並びます。六分ヴォールトは初期のゴシックにだけ見られる特徴で、後に横長の一柱間をユニットにした四分ヴォールトに変化していきます。
 身廊を高くするため、これを支える側廊を二階建て(トリビューン)とし、屋根裏部屋(トリフォリアム)を設け、さらにその上に高窓層を設けました。この結果、身廊側面は、下から大アーケイド、トリビューン、トリフォリアム、高窓層の四層構成になりました。屋根裏部屋の上に飛梁(フライング・バットレス)を置いて、高い位置でヴォールトのスラスト(推力)を受け止めることで、ますます身廊の天井を高くできるようになりました。
 以上の、六分ヴォールト・大小の柱の強弱・四層構成が、初期ゴシック建築の特徴です。

2.サン・ドニ修道院付属聖堂=ゴシック建築の発生
 パリ北郊にあるサン・ドニ修道院(Saint-Denis)は、王室霊廟として775年から続く長い歴史を持っています。1136年頃から、その付属教会堂で、大きな改造工事が始まりました。およそ100年後の1231年頃には、円形断面のピアを含む内陣身廊の改造が始まり、1245年ごろから名建築家ピエール・ド・モントルイによって内陣の天井が掛け替えられました。
とくに内陣は、半円形の周歩廊(祭壇の背後にある通路)に石造天井を架ける方法が入念に検討され、台形や多角形平面のセルに石造ヴォールトを架けるには、尖りアーチとリブ・ヴォールトを組み合わせることが有効であることが明らかになりました。周歩廊付近のヴォールトを観察すると、ヴォールト天井の石材の厚みが不均一であるなど、技術的にはまだ稚拙な印象を受けますが、多角形平面の形に合わせてリブ・ヴォールトが有効に使われていることが分かります。
 また、ロマネスク建築で主流であったフレスコ壁画に代わって、ステンドグラスと彫刻による聖書の表現が始まったことも見逃せません。残念ながら当時のステンドグラスは失われましたが、柱間いっぱいに開かれた窓は、壁消失の方向性を明確に打ち出しています。西正面は平坦な壁面が多く、ロマネスク的な重厚さを残していますが、三つの扉口は、人像柱で飾られ、ティンパヌムと重層アーチは聖書の物語を表現し、石のバイブルとしての第一歩を踏み出しています。
図1 サン・ドニ修道院付属聖堂内陣 台形や五角形平面に石造ヴォールトが架けられ、ゴシック建築がはじまった
図2 扉口は、人像柱で飾られ、ティンパヌムと重層アーチは聖書の物語を表現している
2.ノワイヨン、ラン、パリの大聖堂=初期ゴシック建築
 サン・ドニ修道院付属聖堂ではじまった新しいヴォールトの使用は、直ちにパリ周辺の大聖堂に採用され、ゴシック建築の重要な要素である高い天井ヴォールトの出現を用意しました。ここでは初期ゴシックを代表する、ノワイヨン、ラン、パリの大聖堂を紹介します。

●ノワイヨンの大聖堂
 ノワイヨン(Noyon)は、パリの北方にある小さな町で、サン・ドニ修道院付属聖堂の建設直後からゴシック様式としての建設がはじまった大聖堂です。外観はきわめて閉鎖的で、西正面は要塞のような印象さえ受けます。
身廊は、六分ヴォールト、柱の大小の強弱、四段構成の特徴が顕著に見られ、初期ゴシックの特徴を備えています。側廊二階の高さが高いため、高窓層が狭く、内部は全体としてやや暗くなっています。
 

●ランの大聖堂
 ランの大聖堂(Laon)は、パリと並ぶ初期ゴシックの傑作です。ランの町は、パリの北東にあって、小高い丘の上に立っています。そのため大変見晴らしがよく、イル・ド・フランスの広大な平野を眺めることが出来ます。中心部の旧市街地は、平坦な土地が少ないために迷路のようになっており、南イタリアの旧市街地を思わせる街並みです。
図3 ノワイヨン大聖堂、内観


大聖堂の建設開始当初は、西正面の双塔の他、南北正面に双塔を加えるなど、合計7基もの塔を建てる計画でしたが、実際にはその一部しか完成しませんでした。最初に完成した西の双塔は、八角形平面の二階建てになっていて、八角塔の四辺に下部二層を正方形、第三層を多角形にした小塔がついています。小塔の最上部をよく見ると、この大聖堂建設で重い石材を引き上げる重労働を担った牛が彫刻されて装飾となっています。
西正面の意匠は、静的なパリ大聖堂の西正面とは対照的に、ダイナミックな構成となっています。特に、彫りの深い扉口付近のデザインは、南北正面の双塔と共に、各地で模倣されました。内陣は、四層構成で、全ての層にアーケイドをモチーフとしため、全体として均一的で整った印象を受けます。

●パリの大聖堂
パリの大聖堂は、ランと並んで初期ゴシック建築の傑作です。ランとは対照的に、静的で整った西正面がまず印象的です。双塔の基部には、レースのようなコロネードが配置され、中央の薔薇窓層と、双塔の高窓の間を巧みに調和させています。
図4 ランの大聖堂 西正面 彫りの深い扉口は、アミアンなど多くの大聖堂で模倣された。塔の最上部には、大聖堂建設で活躍した牛の彫刻がある。
外陣を建設中であった1180年頃に、はじめて飛梁(フライング・バットレス)が使われました。スパンが15mにも達する内陣の飛梁は、13世紀頃に加えられたもので、それ以前は壁体上部を鉄のバンドで締める方法がとられていました。身廊の石造天井は、ノワイヨン(23.5m)やラン(25m)よりもかなり高く、32.5mあります。身廊は、四層構成であったものを、1230年ごろ丸窓のトリフォリウムを高窓に吸収して三層構成に変更されました。1845年になって、有名なヴィオレ・ル・デュクによる修復が行われ四層構成に戻され、現在は四層構成の姿が観察できます。石造天井は、身廊が六分ヴォールト、側廊が四分ヴォールトになっていて、建設技術の変化を見ることが出来ます。

図5 パリの大聖堂 西正面

図6 パリの大聖堂 南面外観 右手にスパン15mの飛梁が見える